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連載・特集

縮景園築庭400年 <上> 歴史

 広島城(広島市中区)から東に約600メートル。国名勝の縮景園は、ビルやマンションが林立する都心部で風雅な景観を楽しめる貴重な場所だ。この大名庭園は今年、江戸時代の築庭から400年を迎えた。節目の年に際し、庭園の歴史や園内の見どころ、被爆からの復興の歩みなどをたどり、あらためてその魅力に迫りたい。(城戸良彰)

宗箇が指揮 全国に先駆け

改修後 優雅な演出随所に

 縮景園の歴史は1620年、旧広島藩主浅野氏の初代長晟(ながあきら)が自身の別邸として築造を命じたことに始まる。長晟は前年、幕府より広島42万石を与えられ旧領和歌山から移っている。日本庭園の歴史に詳しい作庭家の斎藤忠一さん(81)=京都市=は「江戸時代の大名庭園としてはかなり早い築庭だ」と指摘する。

 大名が国元に大規模な庭園を築くのは、一般的に寛文年間(1661~73年)以降という。近代に日本三名園の一つと称される後楽園(岡山市北区)の完成は1700年だ。大規模な土木工事は幕府から疑いを招きかねず、慎重になっていた可能性がある。

 なぜ長晟は他に先駆け縮景園を築くことができたのか。鍵を握るのは造営を指揮した武将茶人の家老上田宗箇(そうこ)だ。茶道上田宗箇流の祖として知られる彼は、長晟以前に豊臣秀吉に仕え天下人の築城、築庭を間近で学び、各地の庭造りに携わった。

 1616年ごろには徳川家康の命で、家康の9男義直が治める尾張藩名古屋城の二の丸庭園の作事に関わったとされる。斎藤さんは「宗箇は家康の覚えめでたい、幕府公認の作庭家だった」と推測する。宗箇の存在により長晟は安心して縮景園を築くことができ、また園は時の権力者とつながっていることを示す権威の象徴ともなった。

 縮景園は江戸時代後期の大改修を経て、今に近い姿に生まれ変わる。当初は現在の園のシンボルといえるアーチ型の「跨虹(ここう)橋」はなく、池の中央には木橋が架かっていた。池に浮かぶ島も今のようににぎやかでなく、橋を挟んで1対のみ。戦場で勇猛果敢だったという宗箇の気性を反映したかのように、素朴で力強い景観だった。

 園の改造を命じたのは、7代藩主重晟(しげあきら)だった。1758年の城下の火災による焼失を受けて復興に尽力し、83~88年に本格的な改修に取り組む。多くの島や橋、茶室などを導入し、複雑で変化に富んだ優雅な空間を演出。当時最先端と考えられた中国風の意匠をふんだんに用いた。跨虹橋も中国西湖の景観をモデルにした中国趣味の一環とされる。

 重晟は儒学者の頼春水や画家の岡岷山(みんざん)ら藩お抱えの文化人を園に招き、書画の制作を促している。頼山陽史跡資料館(広島市中区)の花本哲志主任学芸員は「格調高く書画で庭園美を礼賛するというのは春水のような限られた知識人にしかできなかっただろう」と指摘する。縮景園は最先端の意匠や文芸活動を通し、広島の文化水準の高さを知らしめる役割を果たした。

 明治維新後、藩が廃止されても園は浅野家の所有であり続けた。最後の藩主長勲(ながこと)は1913(大正2)年、園の南西の現在は広島県立美術館が立つ場所に、観古館という私立美術館を建造。同家の名宝を一般に公開した。

 縮景園は観古館ができる以前、年2日、園内にあった稲荷神社の祭礼日とその前日に公開していた。開館後は館と同じく、隔日の一般公開に切り替えている。県立美術館の神内有理主任学芸員は「長勲には旧藩文化を近代日本のアイデンティティーの一つと捉え、守り伝えていく意図があった可能性がある」と話す。

 晩年を縮景園に隣接する邸宅で過ごした長勲の没後、40年に園は広島県へ寄贈される。同年、国名勝に指定。45年、原爆で壊滅的な被害を受けたものの戦後に復興を果たした。今なお江戸の庭園美を伝え、広島市民の誇りとなっている。

(2020年9月17日朝刊掲載)

縮景園築庭400年 <中> 園内

縮景園築庭400年 <下> 復興

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