×

連載・特集

縮景園築庭400年 <中> 園内

計算された「自然」の美

調馬場や薬草 実用も意識

 旧広島藩主浅野氏による築庭から、今年で400年を迎えた縮景園(広島市中区)には、約4万7千平方メートルの敷地に160種以上、約7600本もの草木が植わる。緑豊かな「自然」として親しまれているが、緻密な意図によって計算された美がちりばめられている。園内を回遊しながら、その魅力を紹介する。

 「園内の木々はそれらが一番見栄えのする場所に植えられている」。勤続40年目のベテラン庭園技師、梅田雅幸さん(69)が解説する。例えば秋に美しく色づくモミジは園西に集まる。紅葉は夕日を背に浴びた姿が映えるためだ。逆に桜は、柔らかい朝日で花がみずみずしく見えるよう東側に多いという。

 濯纓池(たくえいち)と呼ばれる大池の南。数寄屋造りの清風館や東屋の超然居から対岸を眺望すると、アーチ型の跨虹(ここう)橋の向こうに、東西に盛り上がった築山(つきやま)を見渡せる。松を中心とした木々は、池の周囲は低く、遠くは高く刈り込まれ、眺めに奥行きをもたらしている。

 梅田さんは「築山は参勤交代の道中に当たる東海道の山々を模したと伝えられている」と説く。その説に沿うと東端の標高10メートル、園内で最も高い迎暉峰(げいきほう)は富士山になぞらえられる。

 築山と対になるように、大小の島が浮かぶ濯纓池は瀬戸内の多島美を表現したとの伝えもある。真相は定かではないが、さまざまな趣の景勝が幾多も縮め集められていることから名付けられたといわれる、「縮景園」の名にふさわしい造りといえそうだ。

 大名庭園はただ眺めるだけでなく、実際に池の周囲を回遊して景観の変化を楽しむ、いわば体験型の娯楽施設だ。池の南から仰ぎ見た迎暉峰に登ると、庭園を見下ろす爽やかな眺望が開ける。城下に高い構築物がなかった江戸時代には、南は遠く宮島まで見通すことができたとされる。

 奇抜な仕掛けも設けられている。迎暉峰の近くには看花榻(かんかとう)という屋根付きの腰掛けがある。かつては台座が回転し、360度パノラマの景色を見渡せるようになっていた。客を飽きさせない演出の一環だ。

 築山を伝い池の北岸やや西寄りに出ると、細い滝が見つかる。現在はポンプでくみ上げた地下水の鉄分で底が赤く見えるが、流れを白い竜に見立てて白龍泉と名付けられている。立身出世を象徴する登竜門の故事を意識したのだろう。1807年には清水を求めて牛田(現東区)から水道を引いたことが知られる。ただ故障が多く、園の北端に水溜を築き、必要な時に人力で水を供給したようだ。

 大名庭園に特徴的な役割として武芸の修練がある。縮景園にも西側に馬術の訓練をする調馬場があり、江戸時代には弓場もあった。手だれの藩士が招かれることもあり、その際に園内の拝観も許されたとされる。藩士にとっては名誉なことだっただろう。

 被爆以前の図面には、調馬場の脇にモウソウチクの畑が確認できる。中国原産で琉球王国を経由し薩摩藩から全国に広がった竹で、江戸時代から栽培されていたと思われる。築庭当初から園内には薬草園が設けられていたことも知られている。梅田さんは「園にはいわば実験農園の役割もあったのでは」と考える。

 大名庭園は四季折々の景観を楽しむ遊興、社交の場にとどまらない。武芸の錬成や薬草の栽培といった実用も意識する姿勢には、領国を統治する為政者としての自負がにじむ。知れば知るほど奥深い空間だ。(城戸良彰)

(2020年9月18日朝刊掲載)

縮景園築庭400年 <上> 歴史

縮景園築庭400年 <下> 復興

年別アーカイブ