[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 写真が刻む被爆前の慈仙寺
20年9月23日
爆心直下で壊滅 二家本さん保管
広い本堂 少年たちが雑魚寝
現在の平和記念公園(広島市中区)内にあった慈仙寺の本堂内部を、被爆前に撮影した写真が残っていることが分かった。爆心直下で壊滅する前の寺の内部を捉えたカットは、これまで確認されていない。二家本睦雄さん(92)=岩国市=が、ここで寝泊まりした記憶とともに大切に保管してきた。(新山京子)
寺の本堂に机を並べて、食事を前に手を合わせる44人の少年たち。当時15歳だった二家本さんは、旧鉄道省広島鉄道局の新人研修を受けていた。旧中島本町にあった寺の本堂や別棟を間借りして約2カ月間、鉄道業務を学んだという。「広い本堂に枕を敷き詰めて、同僚たちと雑魚寝したのを覚えています」。写真は1942年5月、修了記念に撮影された。
慈仙寺は爆心地から約200メートル。45年8月6日、原爆に焼き尽くされ、境内にいた梶山仙齢住職=当時49歳=と妻ヒサエさんたち家族5人が犠牲になった。直後から境内は臨時の火葬場となり、おびただしい数の遺体が焼かれ、遺骨が集められた。
復員した長男の仙順さん(2019年に96歳で死去)は戦後、焼け跡にバラックを建てて寺を再建したが、平和記念公園の建設に伴う換地で市中心部に移転。跡地付近は1955年、原爆供養塔になった。寺は73年に江波二本松(中区)へ再移転した。
被爆前の本堂内部の写真は、原爆資料館や市公文書館も所蔵していない。父の仙順さんを継いだ謙治住職(69)の手元にあるのは、外観が部分的に分かる1枚だけ。「大きな本堂だったとは聞いていた。細かい部分まで造りが分かる。父が生きているうちに見てほしかった」
慈仙寺で研修を受けた二家本さんは、広島鉄道局などで勤務して43年12月、呉駅に赴任した。45年7月の呉空襲に遭い、8月6日は呉駅構内で「室内が急に明るくなって数秒後に『ドーン』という爆音を聞いた」という。広島市内にいた父を捜すため、翌日に入市被爆した。
空襲と原爆の記憶を思い起こしながら、二家本さんは「戦争はつらく、悲しいもの。二度と繰り返してはいけない」と力を込める。今年8月、境内で研修生が仙齢さんを囲んだ集合写真と合わせて2枚を慈仙寺に寄贈した。
(2020年9月21日朝刊掲載)