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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] げた工場 職人に活気

爆心から1.5キロの炭田商会 親族が写真保管

生活必需品 製造盛ん

 げたはかつて、誰もがはいていた生活必需品。広島市内でも多く製造された。舟入本町(現中区)にあった「炭田商会」で1930~40年代に撮影された工場の写真を、親族が保管していた。原爆で壊滅した往時の活気を伝える貴重な郷土資料だ。(桑島美帆)

 羽織はかまや着物をまとい、記念写真に納まる炭田家の人たち。原木から切り取った「桐げた」が塔のようにうずたかく積み上がっている。男性用と女性用に分け、屋外で乾燥させる工程だ。30年代半ばに、工場の中庭で撮影された。

 広島県内のげた製造は江戸時代に始まり、明治期以降、広島市内でも盛んになった。炭田商会は大正期の17年に炭田順平氏が創業。後に3人の息子が家業を継いだ。「広い敷地に工場や家が並び、職人を15人ほど抱えていた。とてもにぎやかでした」と、次男謙吉さんの孫、暢雄さん(85)=安佐南区=は懐かしむ。

 写真は、三男省吾さんの遺品のアルバムに貼られていた。孫の清木快子さん(73)一家が昨年、佐伯区内の旧宅を取り壊す際に約20冊を見つけた。

 業界関係者が集う記念写真のほか、戦時色が濃くなる41年に撮影された防空演習や、福屋新館(現八丁堀本店)7階で開かれた県主催の展示会を納めた写真も残っていた。「下駄類一般民衆ニ公定価格認識サス為メ」と書き添えられている。「日中戦争の激化を受け、39年に施行された価格等統制令を受けての催しだろう」と市郷土資料館(南区)の本田美和子学芸員は説明する。

 45年8月6日、爆心地から1・5キロの炭田商会は爆風で倒壊し焼失。省吾さんたちは、前年に舟入から自宅を郊外に移していたため助かった。被爆直後から、舟入付近で親戚や職人を探し歩いたという。「みんなやけどがひどく悲惨だったと父が話していた。職人もたくさん亡くなったと聞いた」と省吾さんの孫で清木さんの姉、豊岡詔子さん(77)=西区=は振り返る。

 戦後は市内のげた業者の大半が廃業したり、業態を変えたりした。炭田商会の工場があった辺りも、オフィスビルやマンションが立ち並ぶ。写真だけが、職人街の面影を今に伝えている。

(2020年10月5日朝刊掲載)

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