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社説・コラム

天風録 『「異端の被爆者」逝く』

 講演の謝礼に新米1俵を頂いたことがある。60キロをマイカーから一人で下ろして一汗かいた。それが120キロのエメンタールチーズを裏返すとなると▲児玉光雄さんは牧場経営を志した若き日にスイスで研修中、このチーズのカビを拭う仕事を任された。力が要るから無理するなと農場主は気遣うが、まさか、あの原子野を生き延びた男とは思うまい。複数のがんを患いながら自らの染色体の写真をさらして証言し、88歳で旅立つ▲「酒の味も、たばこの味も、それこそキスの味も知らず…」とつぶやく。児玉さんの評伝「異端の被爆者」にある亡き友への思いだ▲あの日を境に、机を並べた級友の多くが若くして逝ったものの、おのれは生かされている。ならば精いっぱい人生を楽しまなければ友に申し訳ない、という信念があった。途中入社した開発会社では苦労したが「なぜ、そんなに前向きなのか」と同僚に宴席で絡まれたほどだった▲チーズもワインも欧州仕込みで詳しいとにらんで、児玉さんにワインの試飲会を提案したのは1年ほど前。医師に止められていて残念です、と返事があった。重いチーズを相手に苦闘する、その面影を想像して独酌するとしよう。

(2020年11月1日朝刊掲載)

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