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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 森岡恵子さんーみどりちゃん 探し続け

森岡恵子(もりおか・けいこ)さん(84)=広島市中区

02年に「犠牲」確認。覚悟したがつらかった

 森岡恵子さん(84)には、戦時中、遊びや勉強を教えてくれた3歳上の「みどりちゃん」がいました。疎開(そかい)で広島市内を離(はな)れる時、再会を約束しましたが原爆で消息不明に。戦後しばらく過ぎてから、被爆死したことを知りました。悲しみは75年たっても消えません。

 自宅は空鞘稲生(そらさやいなお)神社(中区)の隣(となり)にあり、子どもたちの遊び場だった境内には、いつもにぎやかな声が響(ひび)いていました。数軒離れた家に、友柳みどりさんの家族が暮らしていました。みどりちゃんは、家に遊びに行くと折り紙や算数を優しく教えてくれました。

 そばを流れる本川で、エビ捕(と)りに時間を忘れるほど夢中になっていると、本当の姉のように必ず迎(むか)えに来てくれました。思い出は数え切れないほどあります。「面倒見(めんどうみ)がよくて、憧(あこが)れの存在でした」

 1943年4月、「必勝祈願(ひっしょうきがん)」のために空鞘稲生神社で開かれた入学式を経て、本川国民学校(現本川小)に入りました。3年生に進級する年の45年4月、母親と妹、弟の4人で広島県府中町の伯母の家に疎開します。みどりちゃんは「すぐにまた会えるよ」と抱(だ)きしめてくれました。

 府中国民学校(現府中小)では、すぐに友だちができました。戦時中ながら自然あふれる場所で楽しく過ごしたといいます。

 8月6日。学校で朝礼が終わり、2階の教室に戻(もど)ろうと階段を上っていた時、廊下(ろうか)の窓から1機の飛行機が低空で市中心部に向かうのが見えました。「今に大砲で撃(う)ち落とされるぞ」。同級生たちと口々に言いながら、窓から身を乗り出しました。突然、鮮烈(せんれつ)な光が一面に広がり、爆風で窓が音を立てて崩(くず)れ落ちました。周りで泣き叫(さけ)ぶ声がします。片目に強烈(きょうれつ)な痛(いた)みを感じながら、空に上がったきのこ雲を見ました。

 学校は市内から逃(に)げてきた人であふれ、臨時救護所(りんじきゅうごしょ)になりました。学校に置いていた森岡さんたちの教科書は、けが人の血を拭(ふ)き取るために使われてしまいました。市内の軍需工場(ぐんじゅこうじょう)で被爆した2人のいとこも逃(に)げてきましたが、ガラス片で血だらけになり、傷口(きずぐち)にウジ虫がわきました。

 原爆が落とされて11日後の17日、森岡さんは伯父を捜(さが)すために祖母と市内に入りました。爆心地から約660メートルの空鞘町は焼け野原で、遺骨は見つかりませんでした。みどりちゃんの消息を確かめるすべもありません。あちこちで死体を焼く臭いが鼻をつき、府中町に戻ると体調を崩(くず)して何度も吐(は)きました。

 戦後、「みどりちゃんは生きているかも」と希望を持ち続け、市内に掲示(けいじ)された死没者名簿(しぼつしゃめいぼ)を自転車で見て回ったこともあります。2002年に平和記念公園(中区)の中に国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館すると、登録された犠牲者名(ぎせいしゃめい)を調べに行きました。名前がありました。8月6日に空鞘町で亡くなっていたのです。「覚悟(かくご)はしていたけれど、事実を突(つ)きつけられるとつらかった」

 市内の大学に進学して結婚。2人の子どもに恵まれました。50代前半で中区に美容室を構えて今も働いています。

 今年の夏、子どもの頃の思い出や被爆体験を初めて文章にしたためました。爆心地に最も近い学校だった本川国民学校では、多くの児童が亡くなりました。もし自分が疎開していなかったら―。周囲の人たちに支えられ、生かされた命だと感じています。「罪のない子どもたちの命を奪(うば)う核兵器は必要ない」。筆を進めるたびに、思いが強くなりました。(新山京子)

私たち10代の感想

笑顔の毎日 本当に大事

 森岡さんにとって家族のような存在(そんざい)だった「みどりちゃん」の死を知ったのは、原爆投下から何年もたった後でした。身近な人が亡くなっただけでもつらいのに、時間がたってから伝えられると、私なら死んだことを信じられず、生きる気力を無くしてしまいそうです。家族と笑って暮(く)らせる毎日は本当に大事だと感じました。(中1相馬吏子)

感謝 日頃から伝えたい

 新型コロナウイルス感染拡大(かんせんかくだい)の影響(えいきょう)で、私が通っていた中学校は卒業を目前に休校しました。同級生や先生に「これまでありがとう」と伝えられないままです。森岡さんは「みどりちゃん」と二度と会うことができなくなるとは想像していなかったでしょう。日頃(ひごろ)から周りの人たちに感謝の気持ちを言葉で伝えようと思いました。(高1桂一葉)

何気ない幸せ 守りたい

 森岡さんは「被爆者の話を聞いて、戦時中の子どもたちの日常を知ってほしい」と話しました。私にも友だちと協力し、笑い合う日々があります。大切だと思うし、無くなってほしくないものです。「若者の力で世界の平和を守ってほしい」との言葉もありました。何気ない幸せを守るため、被爆者の体験を後世に語り継ぎたいです。核兵器も争いもない平和な世界をみんなで実現するために、これからも取材をがんばります。(中2山瀬ちひろ)

(2020年11月2日朝刊掲載)

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