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社説・コラム

『別れの記』 被爆者・元動員学徒 児玉光雄(こだま・みつお)さん

10月28日 88歳で死去

友思い 耐えて生きた

 児玉光雄さんに初めて会ったのは12年前。広島大文書館によるオーラルヒストリー(口述記録)の現場だった。晩酌は毎日ですか―と聞かれ「水曜日が休肝日。あとは料理によってワイン、日本酒、焼酎と変えてますね」と児玉さん。ひょうひょうとした、居住まいに印象深いものがあった。牧場経営の経験からワイン通だと後で知る。

 この口述記録は被爆体験だけが目的ではない。むしろ被爆後をどう生きたのか、そこに健康への不安や亡き友への負い目がどう関わるのか、じっくり聞いていた。1年の後、製本の記録「原子野を生きのびて」が届く。あいさつ文は「64年前に青春時代の醍醐味(だいごみ)も知らず、若くして散っていった同期の友のことを思えば、背負う荷がどんなに重くても耐える覚悟はできています」と結んでいた。

 爆心地から850メートルの旧制広島一中(現国泰寺高)で被爆。広島大水畜産学部(当時)を卒業後、牧場経営から転じた宅地開発やリゾート開発に長く携わる。挫折人生でもあったと謙遜していたが、しゃかりきに働いた。

 沖縄県の西表島に赴任した時は名産を掘り起こした。美味な「豆腐よう」があると聞くと、その名人を捜そうと呼び掛ける。土産物の袋も印刷したビニール袋では面白くない、芭蕉布(ばしょうふ)に似た素材で作ろう、と知恵を出す。後に被爆者としてテレビに出た時、当時の社員が「あんたが原爆の人とは知らなんだ」と懐かしんでもくれたという。

 60歳を過ぎて複数のがんを発病した。自身の「傷ついた染色体」を公にさらし、ピカを告発した。「こんちくしょう精神」でがんの痛みに耐え、死んでいった友を思いながら。もう一度、田舎で地鶏農場を営む夢はかなわなかったが、生を全うできたと安堵(あんど)して旅立ったと信じる。(特別論説委員・佐田尾信作)

(2020年11月26日朝刊掲載)

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