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社説・コラム

『今を読む』 オーストラリア・シドニー大名誉准教授 クレアモント康子(やすこ)

旧陸軍被服支廠の活用

平和つくる工場に再生を

 私と被爆地広島との縁は、原民喜、峠三吉、栗原貞子、井伏鱒二といった原爆文学を通してである。文学、美術、映画、音楽などの芸術は人の心に響く。エンパシー(感情移入)があればこそ、人と人は時を超えてつながれる。それは、相手の痛みを共有する力でもある。

 歴史や他者の痛みへエンパシーを得る力を持つのは、芸術に限らない。広島で保存活用が議論されている被爆建物、旧陸軍被服支廠(広島市南区)は、その好例ではないか。

 シドニー大で研究する私は同僚と共に、来年10月から11月にかけての6週間、シドニー大学建築学科のティン・シェッズ・ギャラリーで非核芸術展を開催する予定である。核兵器のみならず、核実験、原発を含めた全ての核使用を非とする芸術展である。

 展示には建築物を含める。井伏の「黒い雨」などを通じて身近に感じてきた被服支廠の写真のほか、存廃を巡る問題も解説することにした。

 その準備をしていた時、友人である「広島文学資料保全の会」代表の土屋時子さんたちが、広島でインターネット配信しているラジオ番組「Hihukushoラジオ」を知らせてくれた。被服支廠の歴史やゆかりの人を紹介する番組である。この番組を通し、被服支廠に関わる人たちの生の声を聞いていると、この建物が、広島の生きた歴史が詰まった「クロノトポス(時空)」そのものであると分かる。

 そしてそれは、広島だけものではない。世界の中の被服支廠である。どの国にも見られるように、加害と被害が交錯した歴史を刻んでいる。

 私の住むオーストラリアは1788年に英国流刑地として定住が始まった。先住民アボリジニの土地は、テラ・ヌリウス(無主地)とみなされ、英国による植民地支配が1901年まで続いた。アボリジニの人たちは、その後も長く人種差別を受けてきた。

 50年代には南部マラリンガで英国による水爆実験も行われた。放射能汚染により、アボリジニたちは、今も先祖の土地へ戻ることができないでいる。92年にアボリジニの先住権が認められ、2008年にはラッド政権が公式謝罪したものの、拘置所での虐待が社会問題となるなど差別の問題は後を絶たない。

 そうした歴史と共に生き、苦しんでいる一人一人の痛みを共有することは、どこの国でもたやすくはない。

 広島にあった旧陸軍第5師団は42年のマレー半島侵略部隊のうちの一つである。マレー半島では多くの現地民がその犠牲になっている。

 またオーストラリアも、旧日本軍とニューギニアで交戦し、本土のダーウィンに襲撃を受けた体験を持つ。日本国内の捕虜収容所では192人の捕虜が飢餓や病気、虐待などで死亡している。そんなオーストラリア側の視点から見た広島は、単に被爆した悲劇の地ではない。「原爆投下によって戦争が終結した」という見方は根強い。

 被服支廠は、軍都広島の最後を映した場所である。原爆で数え切れぬ犠牲者を出した歴史の生き証人でもある。

 広島市の原爆資料館を設計した建築家丹下健三は、資料館を「平和をつくりだす工場」と意図したと聞く。だが工場から生み出されるのが多彩な平和文化運動だとすれば、現状は少し意図と異なるように思われる。

 その点、被服支廠の建物は市民の日常に密着し、平和を生み出す場として最適ではないだろうか。この空間を得ることで、平和文化活動はさらに発展するのではないか。

 例えば文学館やギャラリー、多目的ホールなどの施設にすることは将来的な文化投資である。再生させ、活用できれば、国内外の訪問者にとっても貴重なスポットになるに違いない。財源は官民の協力に加え、基金を設立してネットサイトを活用するなど、世界から広く集める努力も必要となろう。

 被服支廠というクロノトポスで積極的に想像力を働かせ、未来に向けて平和理念を導き出す。そうした行為もまた、無念にして亡くなった原爆犠牲者への慰霊である。

 44年生まれ。東京都港区出身。玉川大卒。シドニー大でオーストラリア文学修士号、日本文学博士号取得。16年までシドニー大日本研究科准教授。著書に「大江健三郎の小説」(英語)「市民の力と戦後和解」(日英語)、訳書に「ISHIBUMI」など。

(2020年11月28日朝刊掲載)

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