早期移転 議論進展願う 放影研が霞キャンパス案 関係者 研究「平和貢献を」
20年12月4日
放射線影響研究所(放影研、広島市南区)が、新たな移転候補地に加えると発表した広島大霞(かすみ)キャンパス(同区)。放影研は、もう一つの候補地である市総合健康センター(中区)と比較検討して来年6月に移転先を決めたいとの考えを示し、市や被爆者団体は早期の移転実現をあらためて求めた。(久保田剛、衣川圭、水川恭輔)
「一つだった選択肢が二つに増えた。より移転協議が進みやすくなり、歓迎している」。小池信之副市長は放影研の地元連絡協議会に出席後、取材に答えた。
市は、放影研がある比治山は「古くから市民に親しまれた文化的財産」と訴え、移転を前提に「平和の丘」の整備を描く。被爆者の血液などの試料を保存するためにも、築約70年で老朽化した現施設からの移転を求めてきた。
移転先選びでは、費用面から「新設は困難」とする国の意向を踏まえ、市は同センターへの入居を提案してきた。小池副市長は「霞キャンパスなら共同研究はやりやすくなるだろう。施設の共同利用の面でもメリットがある」と理解を示し、センター入居案にこだわらない姿勢をみせる。
一方、センターへの入居実現に向けて市は、市医師会に協力を依頼してきた経緯がある。センター内で市医師会が運営する検査施設を別の場所に移し、空いたスペースに放影研を入居させるためだ。市医師会はこの計画を前提に、隣接する市有地に新しい市医師会館を建て、検査施設も移す構想を進めていた。
協議会に参加した市医師会の佐々木博会長は「困惑したが、研究のために霞キャンパスに移ること自体はふさわしいと思う」と説明。霞キャンパス案になっても「方針通り新会館を建てられるよう協力をお願いしたい」と述べた。
被爆者団体も早期移転を求めた。県被団協(坪井直理事長)の前田耕一郎事務局長(72)は「被爆者の心情を踏まえ、どちらの案にしても早い移転の実現を」と話した。1947年に設立した前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)は当初、軍事目的が色濃く、被爆者から「調査すれども治療せず」と批判された。県被団協は、当時の記憶が残る被爆者の声を背景に、移転によって「人類の平和に貢献する研究」がより進むよう願う。
ただ、移転は日米両政府の費用負担なしに実現は見通せない。放影研の丹羽太貫理事長は、センターに入居する場合にかかる費用として積算した約61億円を挙げ、同規模の額なら新築も選択肢となるとの考えを示した。
厚生労働省原爆被爆者援護対策室は「候補地について、今後地元の関係機関の意見を聞きたい」としている。
≪ABCC/放影研を巡る主な動き≫
1945年8月 広島・長崎に原爆投下
9月 日米合同調査団が発足
46年11月 米トルーマン大統領が米学士院と学術会議に被爆者の長期的調査を指令。10日後に4人の専門
家が広島入り
47年3月 広島赤十字病院内に原爆傷害調査委員会(ABCC)を開設
48年1月 国立予防衛生研究所(予研)広島支所がABCC内の研究に加わる
50年11月 広島ABCCが比治山公園に移転開始
52年4月 日本が独立回復
58年7月 成人健康調査を開始
75年4月 ABCCと予研を再編改組し、日米共同運営方式の財団法人放射線影響研究所が発足
86年 広島市が広島大工学部跡地(中区)を移転先として先行取得
93年 放影研が新施設の建設計画をまとめる。米国側が財政難を理由に難色を示し、議論は凍結状態に
2001年5月 被爆2世の健康調査が始まる
06年10月 被爆医療関連施設懇話会が、市中心部への移転を柱とする地元要望をまとめる
08年6月 放影研の第三者機関「上級委員会」が、被爆者の追跡調査などを「少なくとも25年継続すべき
だ」との最終報告
16年11月 市が市総合健康センター(中区)への移転案を示す
19年6月 市総合健康センターへの移転を「可能」とする委託調査の結果が判明。費用は計約61億円と試算
20年11月 新たな移転候補地として広島大霞キャンパス(南区)が浮上したことが判明
(2020年12月4日朝刊掲載)
「一つだった選択肢が二つに増えた。より移転協議が進みやすくなり、歓迎している」。小池信之副市長は放影研の地元連絡協議会に出席後、取材に答えた。
市は、放影研がある比治山は「古くから市民に親しまれた文化的財産」と訴え、移転を前提に「平和の丘」の整備を描く。被爆者の血液などの試料を保存するためにも、築約70年で老朽化した現施設からの移転を求めてきた。
移転先選びでは、費用面から「新設は困難」とする国の意向を踏まえ、市は同センターへの入居を提案してきた。小池副市長は「霞キャンパスなら共同研究はやりやすくなるだろう。施設の共同利用の面でもメリットがある」と理解を示し、センター入居案にこだわらない姿勢をみせる。
一方、センターへの入居実現に向けて市は、市医師会に協力を依頼してきた経緯がある。センター内で市医師会が運営する検査施設を別の場所に移し、空いたスペースに放影研を入居させるためだ。市医師会はこの計画を前提に、隣接する市有地に新しい市医師会館を建て、検査施設も移す構想を進めていた。
協議会に参加した市医師会の佐々木博会長は「困惑したが、研究のために霞キャンパスに移ること自体はふさわしいと思う」と説明。霞キャンパス案になっても「方針通り新会館を建てられるよう協力をお願いしたい」と述べた。
被爆者団体も早期移転を求めた。県被団協(坪井直理事長)の前田耕一郎事務局長(72)は「被爆者の心情を踏まえ、どちらの案にしても早い移転の実現を」と話した。1947年に設立した前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)は当初、軍事目的が色濃く、被爆者から「調査すれども治療せず」と批判された。県被団協は、当時の記憶が残る被爆者の声を背景に、移転によって「人類の平和に貢献する研究」がより進むよう願う。
ただ、移転は日米両政府の費用負担なしに実現は見通せない。放影研の丹羽太貫理事長は、センターに入居する場合にかかる費用として積算した約61億円を挙げ、同規模の額なら新築も選択肢となるとの考えを示した。
厚生労働省原爆被爆者援護対策室は「候補地について、今後地元の関係機関の意見を聞きたい」としている。
≪ABCC/放影研を巡る主な動き≫
1945年8月 広島・長崎に原爆投下
9月 日米合同調査団が発足
46年11月 米トルーマン大統領が米学士院と学術会議に被爆者の長期的調査を指令。10日後に4人の専門
家が広島入り
47年3月 広島赤十字病院内に原爆傷害調査委員会(ABCC)を開設
48年1月 国立予防衛生研究所(予研)広島支所がABCC内の研究に加わる
50年11月 広島ABCCが比治山公園に移転開始
52年4月 日本が独立回復
58年7月 成人健康調査を開始
75年4月 ABCCと予研を再編改組し、日米共同運営方式の財団法人放射線影響研究所が発足
86年 広島市が広島大工学部跡地(中区)を移転先として先行取得
93年 放影研が新施設の建設計画をまとめる。米国側が財政難を理由に難色を示し、議論は凍結状態に
2001年5月 被爆2世の健康調査が始まる
06年10月 被爆医療関連施設懇話会が、市中心部への移転を柱とする地元要望をまとめる
08年6月 放影研の第三者機関「上級委員会」が、被爆者の追跡調査などを「少なくとも25年継続すべき
だ」との最終報告
16年11月 市が市総合健康センター(中区)への移転案を示す
19年6月 市総合健康センターへの移転を「可能」とする委託調査の結果が判明。費用は計約61億円と試算
20年11月 新たな移転候補地として広島大霞キャンパス(南区)が浮上したことが判明
(2020年12月4日朝刊掲載)