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社説・コラム

天風録 『ゲート通りの炎の記憶』

 「25年ぶりV」の時に広島東洋カープは南国のキャンプ地でも沿道の祝福を受けた。ゲート通りを赤で埋め尽くせ―と呼び掛けたのは沖縄市。旧市名は「コザ」で、金網のゲートの向こうは異国だ▲50年前の12月20日未明、その街で80両を超す米軍基地の車が赤々と炎上した。コザ騒動である。米兵による交通事故をうやむやにさせまいと、群衆が憲兵とにらみ合って事件になった。死者は出なかったが、本土復帰を前に日米政府に衝撃を与える▲一時は騒乱罪まで検討された。だが、本土とは司法の歴史が異なる琉球検察は、より軽い罪で10人を起訴するにとどめる▲記録作家七尾和晃さんは著書「琉球検事」で当時の検察側から証言を集めている。摘発された人々を「暴徒」と断じる側と「英雄」と仰ぐ側の間で、彼らは苦悩したのだろう。当時の検事長は晩年、酔っぱらいのけんか―という言い回しまで用いたが、一つの落としどころだった▲小学5年の頃、現場を歩いた玉城デニー知事は焼けたゴムの臭いを覚えているそうだ。先日は「沖縄の置かれている不条理は今でも変わらない」と述べた。コザという地名は遠くなっても、ゲートのある風景は消えていない。

(2020年12月13日朝刊掲載)

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