原爆と復興 元記者が手記 「あの日」の体験・取材回顧
20年12月21日
毎日新聞元記者の山野上純夫さん(91)=京都府八幡市=が、自身の被爆体験や記者として広島の復興を記録した日々を回顧し、2017年から同紙広島面に連載した68本の記事を一冊にまとめて出版した。
山野上さんは1945年8月6日、広島高等師範学校付属中(現広島大付属中・高)科学学級の4年生だった。16歳で、爆心地から1・4キロの東千田町(現中区)の校舎で授業中に被爆。広島大を卒業後、53年に毎日新聞社へ入社。初任地の広島支局で59年まで取材に奔走した。
平和記念公園(同)の「原爆の子の像」のモデル、佐々木禎子さんの同級生らの心情や、後障害に苦しんだ被爆者たちを取材した経験を記す。自身の被爆体験については積極的に発信しなかった理由も明かす。被爆時にけがをせず、家族全員が無事だったことから「語る資格はないと思い込んできた」という。
題名は「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想」。旧広島高師付属中の後輩らから支援を受け500部印刷した。山野上さんは「復興途上の広島で暮らした人々の営みを知ってほしい」と話している。(新山京子)
(2020年12月21日朝刊掲載)
山野上さんは1945年8月6日、広島高等師範学校付属中(現広島大付属中・高)科学学級の4年生だった。16歳で、爆心地から1・4キロの東千田町(現中区)の校舎で授業中に被爆。広島大を卒業後、53年に毎日新聞社へ入社。初任地の広島支局で59年まで取材に奔走した。
平和記念公園(同)の「原爆の子の像」のモデル、佐々木禎子さんの同級生らの心情や、後障害に苦しんだ被爆者たちを取材した経験を記す。自身の被爆体験については積極的に発信しなかった理由も明かす。被爆時にけがをせず、家族全員が無事だったことから「語る資格はないと思い込んできた」という。
題名は「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想」。旧広島高師付属中の後輩らから支援を受け500部印刷した。山野上さんは「復興途上の広島で暮らした人々の営みを知ってほしい」と話している。(新山京子)
(2020年12月21日朝刊掲載)