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非核特使 証言の船旅 米で治療・移住のササモリさん ベトナムなど訪問へ 「生かされた」使命胸に

 米国ロサンゼルス郊外に住む被爆者シゲコ・ササモリさん(81)が、日本政府が委嘱する「非核特使」となり、ベトナムなどで証言をする。1955年の渡米治療を機に米国で生きることを選び、老いても世界各地で証言活動を続ける。「生かしてもらった使命がある」。18日の出発を前に広島へ帰郷して被爆した場所を訪ねた。

 「真っ青な空に機影が光り、『きれいだなあ』とこの場所で見ていたら…」。旧姓は新本(にいもと)恵子さん。広島女子商1年の1945年8月6日、鶴見橋西詰め(中区)一帯の建物疎開作業に動員された。爆心地から約1・5キロ。鉛筆も持てないほど体を焼かれ、復学は断念した。13歳だった。

 被爆7年後に表した手記が残る。「自分が火傷をして居る事を気にかけず(略)世の中を進んで行こう、と決心しました」とつづっていた。「本当にそんな気持ちになれたのは、素晴らしい人たちとの出会いや支えがあったから」と顧みる。

 渡米治療を提唱する広島流川教会の谷本清牧師(86年死去)と出会い、19歳の年に洗礼を受けた。事業を実現させて後に広島市特別名誉市民となるノーマン・カズンズ氏(90年死去)の支援で57年再び渡米。学んだ看護の仕事に就き、一人息子は氏にちなんでノーマンと名付け、シングルマザーで育てあげた。80年からは西海岸に移り住み、証言活動にも本格的に取り組んだ。

 米上院や国連をはじめ、全米各地の大学・教会、3年前にはチェコの首都プラハ、昨年はニュージーランドでも証言。自らの名前を冠した「ヒロシマ・ナガサキ・ピース・プロジェクト」を設け、「80からの手習い」と笑いながらタブレット型多機能端末を使いこなして発信する。今回は、ピースボートに乗船しての証言で18日横浜港をたつ。

 「戦争は絶対してはならない。私が言いたいのはそれに尽きる。幸い今の私は体も動く。今この時を大切に世界中の人に伝えたいの」。さらに前へ進むかのように言葉は歯切れよく続いた。(編集委員・西本雅実)

渡米治療
 日米の市民が提唱して1955年、広島の独身女性25人(当時18~30歳)が渡米し、ニューヨークを代表する病院で翌年にかけ、ケロイドを取り除く手術などを受けた。現地メディアからは「ヒロシマ・ガールズ」と呼ばれた彼女らは、身をもって原爆の被害を知らせ、57年の原爆医療法制定の引き金にもなった。

(2013年7月14日朝刊掲載)

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