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社説・コラム

『潮流』 バブさんの1世紀

■特別論説委員 佐田尾信作

 自前の顎ひげでサンタクロースに扮(ふん)することのできる人はそう多くない。70年にわたって広島、山口両県で宣教師、英語教師、市民運動家として生きたバブ・マックウィリアムスさんの訃報を聞いた。100歳になったばかりだった。

 宣教師の子として日本で生まれ育ったカナダ人。太平洋戦争の頃は祖国で大学と神学校を終え、1951年に再び日本へ。岩徳線沿線で農村伝道にいそしむ傍ら、養豚業まで手掛けていたと妻の土井桂子さん(76)に聞いて驚いた。「言葉だけでなく、社会に資するよう行動で示すのが伝道だと考えていたようです」

 日本に戦後戻ったのは、戦争放棄をうたう憲法9条にひかれたからだ。だが、もう昔の日本じゃない―と思って来てみれば、警察予備隊から自衛隊へと再軍備が進む現実を目の当たりにする。「9条は死んだ、お葬式を出した、と言っていました」と土井さん。

 訃報に接して広島の友人たちがこぞって思い出したのは、80年代の終わりに発足した市民団体「ピースリンク広島・呉・岩国」の名付け親であることだ。「リンク」はバブさんの発案。対等な者同士が水平につながる―。リンクとは自由と自立を何より重んじる彼の思想そのものだった。

 筆者がバブさんを知ったのもその頃。いるだけで生真面目な市民運動の現場を和ませていた。パイを焼きながら英語を教えるのはお手のもの。家庭では料理や大工仕事をいとわない。父親が開拓者の一人だった長野県・野尻湖畔の外国人別荘地「神山国際村」で毎年必ずくつろぐことを楽しみにしてもいたという。

 昨年12月に施設でサンタに扮したのが最後。亡くなる8日前にはオンラインで国内外の親族から100歳の祝いを受けていた。この日本に残した憂いもあろう。これからもサンタでやって来そうな気がする。

(2021年2月13日朝刊掲載)

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