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原爆資料館 展示入れ替え 広島 60点27日から公開

 広島市中区の原爆資料館は26日、本館で常設展示する原爆犠牲者の遺品の入れ替え作業を報道陣に公開した。2019年4月に本館がリニューアルオープンして以来、初めての大規模な入れ替えで、今回は約60点を交換した。27日から公開する。(水川恭輔)

 建物疎開作業に動員されて被爆し、亡くなった生徒の遺品を多く展示する「8月6日の惨状」のコーナーでは初の入れ替え。焼け跡で家族が見つけた制服やかばん、防空頭巾など22人の遺品33点を並べた。

 さまざまな年代の犠牲者の遺品を遺影や家族の言葉とともに紹介する「魂の叫び」のコーナーでは、大やけどを負って亡くなった女性が身につけていた、ぼろぼろのモンペなど17人の25点を慎重に据えた。

 資料館は、遺品をはじめとする実物資料約2万点を収蔵。長期間の展示による劣化を防ぐとともに、できるだけ多くの資料を紹介するため、今後も定期的に入れ替えを行う。今回は24日から3日間臨時休館して作業した。

 落葉裕信学芸員は「本当は手元に置きたい遺品を資料館に寄贈した遺族の『こんなことを二度と起こしてほしくない』という思いを感じてほしい」と話している。

「鏡の覆い」 残る血痕 17歳で被爆死 井東ユキさん刺しゅう

14年ぶり公開 弟「生きた証し見て」

 入れ替えた資料を27日から公開する原爆資料館(広島市中区)本館には、17歳で被爆死した井東ユキさんの遺品である「鏡の覆い」も並ぶ。ユキさんが縫った愛くるしいスズメの柄が入る鮮やかな赤色の生地には、76年前の「あの日」の血痕の染みが残る。弟の茂夫さん(90)=東広島市=が「平和の一助になれば」と願い、2002年に寄贈した。

 「姉は、やおい(やさしい)性格で、きょうだいげんかをしたこともありませんでした。必死になって刺しゅうする姿に感心したものです」。茂夫さんは帰宅後に覆い作りに打ち込んだ姉の姿をしみじみと語る。進徳高等女学校(現進徳女子高)の手芸の課題で1年掛かりで仕上げたという。

 ユキさんは1945年春に進徳高女を卒業。8月6日朝は吉島本町(現中区吉島西)の自宅にいた。爆心地の南西2・2キロの自宅は倒壊を免れたが、爆風で飛び散った鏡台の鏡の破片がユキさんの胸に突き刺さった。中庭に吹き飛ばされ、鏡に掛けていた覆いを胸に当てて血を流して息絶えているのを家族が見つけた。

 修道中(現修道中高)3年だった茂夫さんは動員先から家に戻ると、家族と自宅裏にまきを集め、ユキさんを荼毘(だび)に付した。皮膚や衣服が黒く焼けた数多くの遺体や負傷者を帰路に目にした茂夫さんは「悲しいというよりも、死に慣れ、感情がまひしていました」と振り返る。

 一家は戦後、生活が苦しく、引っ越しを繰り返したが、鏡の覆いは遺品として大切に守ってきた。父の外次郎さんは78年に85歳で亡くなるまで、チラシの裏紙を使ってユキさんを悼む俳句をいくつも書き残した。

 「桃買いに行く筈(はず)なりし娘ユキ」「娘焼く炎や赤し夏の夜半」「時移り娘焼きし所と誰が知る」―。茂夫さんは鏡の覆いを資料館に寄贈する際、亡き父の俳句をまとめた小冊子も合わせて託した。

 鏡の覆いが展示されるのは、07年以来14年ぶり。遺品の写真を手元に置いている茂夫さんは「覆いを見ると、心を込めて刺しゅうする生前の姉の姿が思い出され、かわいそうな思いがこみ上げます。姉の生きた証しを見てもらい、平和について考えてほしい」と話している。(水川恭輔)

(2021年2月27日朝刊掲載)

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