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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 岡部ひさ枝さんー夜勤を交代 生死分けた

岡部(おかべ)ひさ枝(え)さん(95)=広島市中区

髪から粉々のガラス。顔も体も血だらけ

 爆心地から約1・6キロの広島市千田町(現中区)にあった広島貯金支局(貯金局)は、大きな窓が斬新(ざんしん)な鉄筋4階建てのビルでした。爆風で窓ガラスは砕け、至る所で負傷者の血が飛び散りました。岡部(旧姓大野)ひさ枝さん(95)は、20歳で見たあの惨状(さんじょう)を今でも鮮明に覚えています。

 1940年3月に広島高等師範(しはん)学校付属小高等科(現広島大付属小)を卒業後、貯金局で働き始めました。オフィスは2階にあり、毎朝10分ほどそろばんの練習をした後、入金や支払額を原簿(げんぼ)に書き写すのが日課でした。45年8月6日は管理職の異動日で、8時前に出勤すると職場はどこか慌(あわ)ただしい雰囲気。同僚たちと、書類が保管されている「原簿庫」で少し時間をつぶしました。

 そして自分の席へ戻ろうとした瞬間(しゅんかん)、ピカッと閃光(せんこう)を浴び、とっさに耳をふさいで床に伏せました。日頃、身を守るために訓練させられていた姿勢です。ガラスが刺さったのでしょう。目の前の女性の左腕はちぎれてぶら下がっていました。「重たいから取って」と何度も懇願(こんがん)されましたが、怖くてできません。

 みんな無我夢中で出口へ殺到します。逃げる途中、のどにガラスが刺さったままあおむけに倒れた係長が見えました。1階では、顔なじみの清掃員(せいそういん)が3歳くらいの娘を抱いたままぼうぜんと立ち尽くしています。女の子の腸は、飛び出ていました。

 「広島原爆戦災誌」によると、出勤していた871人のうち、職員や動員学徒計87人が死亡。負傷者は488人に上ったそうです。千田町一帯の木造家屋は次々に倒れ、向かいの家がぐらっと崩れていく様子も見えました。

 段原末広町(現南区)の自宅を目指し、中心部へ向かうと、警官らしき人に「あっちは燃えよる」と阻(はば)まれました。仕方なく御幸橋(みゆきばし)を通ることにしました。やけどで唇(くちびる)や全身の皮膚(ひふ)がめくれた人があちこちでさまよっています。服の黒い部分が焼け、ベルトを残して裸同然の人もいました。

 家にたどり着いたのは昼すぎ。洗面所で頭を洗うと髪の間から粉々のガラスがこぼれ落ち、顔や体は血だらけでした。放射線の影響(えいきょう)で脱毛に悩まされましたが徐々に回復しました。

 22歳で喜八郎さん(2002年に83歳で死去)と結婚し、48年に長男喜久雄(きくお)さん(72)、51年に長女節子さん(70)を出産しました。被爆した女性への偏見が根強い時代。「お義母さんも原爆に遭(あ)っていたから受け入れてくれたと思う」と振り返ります。義母と上幟町(中区)の縮景園近くで「丸キ食堂」を切り盛りする傍ら、夫が起業した美容院向けの材料卸業を手伝い、家計を回しました。

 父若範さん(当時47歳)は現在の廿日市市に出ていたため直接被爆はしませんでしたが、すぐ戻って近所の人を捜(さが)し歩きました。14年後に肺がんで他界。「残留放射線のせいではないか」と思っています。

 本来ならあの日、岡部さんは夜勤明けのはずでした。数日前に「岸菜さん」から頼まれて交代したため、帰宅途中の岸菜さんは犠牲(ぎせい)になり、窓が小さい原簿庫にいた岡部さんは助かりました。わずかな違いが生死を分けたのです。

 建物は、広島地方貯金局として戦後も使われ89年に解体されました。原爆について思い出したくない一心で生きながら、同時に「原爆はあっちゃならん」と強く願ってきました。地元の幟町小で平和学習を精力的に手伝う息子に、思いを託しています。(桑島美帆)

私たち10代の感想

取材経験 将来に生かす

 人前に出るのが苦手な岡部さんは、息子に助けられながら体験を語ってくれました。当事者の声を聞き、核兵器禁止条約が発効しても安心せず、廃絶を働きかけ続けることが肝心(かんじん)だと感じました。被爆者が高齢化し、直接話を聞く機会は少なくなります。6年間の被爆者取材の経験を振(ふ)り返り、将来に生かしたいです。(高3フィリックス・ウォルシュ)

痛み・焦り 鮮明に浮かぶ

 髪を洗うと小さなガラス片で手のひらが傷つき、血が流れ出た場面が印象に残りました。真っ赤な手のひらを見つめる光景や痛み、焦(あせ)りが鮮明に浮かびました。私は小学校教諭(きょうゆ)を目指しています。取材で感じたことを子どもたちに伝えるため、事実を学ぶだけでなく、想像力を持って被爆体験を受け継ぐ必要性を強く感じました。(高3斉藤幸歩)

懸命に生きる被爆者に感謝

 今まで被爆体験を語らず、心の中に閉まっていた岡部さんを取材しました。記憶があいまいな所もあるくらい、当時は逃げるのに必死だったそうです。これまで懸命に生きてきたことも伝わってきました。私たちが暮らす広島の街が現在のように発展したのは、被爆者たちが努力を重ねた結果だと思います。感謝の気持ちを忘れずに生活していきたいと思います。(高1四反田悠花)

(2021年3月8日朝刊掲載)

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