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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 佐田尾信作 戦後史の中の原子力

「恩寵」は返済困難な負債に

 東京電力福島第1原発(イチエフ)の炉心溶融(メルトダウン)から10年たつ。事故という表現は的を射ていないと個人的には思う。破綻だろう。「原子力の平和利用」という見果てぬ夢の結末でもある。

 なぜこうなったのか、どこで道を間違えたのか。広島で記者を稼業にする者の一人として、この10年自問自答してきた。その上で原発の破綻に至る道筋は、日本の戦後史とほぼ一致すると言わざるを得ない。

 益田市生まれの在野の研究者、笹本征男(ゆくお)の労作「米軍占領下の原爆調査」(新幹社、1995年)が一つの手掛かりだと考える。笹本は旧厚生省が連合国軍総司令部(GHQ)に48年に提出した「原子爆弾傷害調査計画」を発見した。それは政府が「来るべき平和な原子力時代」を想定し、広島・長崎の原爆被害調査を「好機」と位置付けていた。

 「(日本が)原子力国家として進むという方向性が感じられる」と笹本はみた。その原子力国家とは原爆を開発・製造する米国のような国ではないが、原爆の影響を国策として調査研究できる国―という意味に受け止めた。計画には「人類の利益」という文言もあり、原子力を否定していない。一方で計画には被爆者の救護治療を目的とする旨の文言はなかった。抱いていた被害者意識が反転したと笹本は確信したのだ。

 こうした動きは、53年の米大統領アイゼンハワーによる「アトムズ・フォー・ピース」演説と決して無関係ではあるまい。翌年には米原子力委員会の委員が、日本こそ最初の原発を据える土地だとキリスト教精神まで持ち出して演説し、翌々年には下院議員が「原爆の洗礼」を受けた広島への原発供与を提案する。

 「原子力の平和利用」を「恩寵(おんちょう)」と捉えた米支配層の思惑が、今なら透けて見えよう。広島では市民の反対で頓挫したものの、歓迎する向きがあったのも事実だ。55年から57年にかけて広島を含む全国主要都市で原子力平和利用博覧会が開催されたことは、多くの人々が幻惑されていた証しだろう。博覧会には本紙も関与していたことに悔いが残る。

 世論が醸成されたのか、福島県は60年に大熊、双葉両町へのイチエフ誘致を打ち出した。その地形ゆえ農業も漁業も振るわない土地柄で、冬場は出稼ぎも多かった。とりわけ大熊町は財政が火の車で、給料の遅配に管理職までがスト状態だったという。当時の町長が四斗だるを提げて東電技術者の宿に現れ、本当に来てくれるのかと迫った話もある。

 さらに注目すべきは、この技術者自身の発言だ。地元の集まりで「原発は原爆と同じでは」と疑う町民に対し、きのこ雲を目撃し兄を亡くしたと彼は自己紹介し「(原発の安全性に)いささかの不安があればいくら会社の方針とはいえ肉親を失った私は会社に従わない」と断言した。これに先の町長も追従し、場は収まった。自治体史編さんを専門にする中嶋久人が「戦後史のなかの福島原発」(大月書店、2014年)で東電側の記録から明かしている。

 この発言を筆者に教えてくれたのは、東北の近現代史に詳しい広島大特任教授の河西英通で、技術者は広島の被爆者ではないかとみる。原発に危惧を抱く人たちに対し、こうして元気で原子力を「善」の方向に生かそうとする私を見てくれ―と言えば、たやすく「安全神話」が生まれることが分かるだろう。河西は「そこにヒロシマが関わっている。私たちも当事者でしょう」と言う。

 今週のNHK日曜討論で復興相平沢勝栄が「福島は原発ではなく別の面で有名にならないとだめだ」と発言していて耳を疑った。復興への投資に意欲を示したのだろうが、「もう、忘れよう」とも聞こえる。

 10年を経て福島県の内と外でギャップは広がった。環境省の調査では中間貯蔵開始から30年後には全ての除染土が県外で最終処分される道筋について、県外の人の8割が「全く知らない」などと答えている。除染土の原因企業は東電なのに「中間」が「最終」になるのではないか―と危惧する地元にとって憂えるべき数字である。恩寵は返済困難な負債に変わった。原子力の時代を終息に向かわせなければ、孫子の代に禍根を残すばかりである。(敬称略)

(2021年3月11日朝刊掲載)

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