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社説・コラム

『今を読む』 児童文学作家 中澤晶子(なかざわ・しょうこ) 福島の原発事故から10年

事実知り考え続ける努力を

 「福島の親子です」と手渡された1枚の絵。厚さ1センチ足らずの板に描かれているのは、母とも父ともとれる大人とその腕に抱かれて眠る赤ん坊。3年前、画家の山内若菜さんから贈られたものだ。その素朴で暖かな小品とはかけ離れたイメージの、力強く絵の具を塗り重ねた大作は今、埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館で見ることができる。「はじまりのはじまり 山内若菜展」(4月10日まで)がそれである。

 彼女は東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の後、被災地の牧場を中心に取材を重ね、3メートル四方を超すキャンバスに、牧場のいきものたちの言葉にならない悲しみと怒りを描き、光ある未来を伝える。昨冬には福島と同じ核被害地である広島も訪れ、作品に奥行きを生みだしている。

 未曽有の出来事からもうすぐ10年。あの日、筆者は東京にいた。長く激しい揺れの後「原発は大丈夫か」との思いが頭をかすめた。翌日、広島へ帰る新幹線の中、電光ニュースで福島第1原発の全電源喪失を知った。1986年に起きた旧ソ連のチェルノブイリ原発事故がまさに「わがこと」になった瞬間だった。

 「日本の原発はソ連とは違い、絶対安全」。当時聞かされていたこの愚かしい言葉に、無意識ではあっても自分はだまされたいと思っていたのではないか―。チェルノブイリの事故後、放射能の恐怖におののく欧州在住の少年を主人公に作品を書いたにもかかわらず、である。後悔の念は、今でも消えない。

 原発の重大事故後、広島にも福島を中心に子どもを連れた避難者が増えた。筆者は仲間たちと保育園の1室で避難者の話を聞き、市民が共に考える小さな会をつくった。日常的な交流のほか、福島からも多くのゲストを招き、講演会やシンポジウム、写真展などを開いてきた。

 漫画「はだしのゲン」から放射能の恐怖を知り、村民に原発事故後の行動を記録する「健康生活手帳」の必要性をいち早く訴えた飯舘村の青年。子どもを他県に避難させて自らは福島に残った大学教員。汚染された田畑に絶望し自死を遂げた父の思いを継いで大地と共に生きる農業従事者…。多くの生の声を聞き、現地にも赴いて、まずは知ることの大切さを学んだ。

 昨年は新型コロナウイルス感染拡大で活動もままならなかったが、また状況を見ながら動きたいと思っている。

 今月福島県沖で発生したマグニチュード7・3の地震は東日本大震災の余震であり、この10年に有感の余震は1万回を超えるという。福島第1原発ではその後、1号機原子炉格納容器の圧力低下が発覚し、3号機の地震計が故障したまま放置されていたことが報じられている。

 一方、廃炉作業は見通しも立たず、汚染水はたまり続けている。何より人体や自然界への被曝(ひばく)影響は未解明であり、「原子力緊急事態宣言」はいまだに解除されていない。そんな中での、名ばかり「復興」五輪の開催、老朽化原発の再稼働など、何をかいわんやである。

 7年前、福井地裁で大飯原発の運転差し止めを命じた元裁判長・樋口英明さんは「知らなければ考えることもできず、道を選ぶこともできない。また、知った以上は、その責任を果たさなければならない」と私たちの開いた講演会で話してくれた。

 原発の存在は社会が抱える矛盾の象徴であり、中央が地方を、強者が弱者を、経済という名のもとにむしばむという構造的な問題をはらむ。それは、水俣や沖縄の問題にも通じる。

 忘れやすく、同じ過ちを繰り返すのが人のさがであったとしても、私たちは、樋口さんのように、事実を知る努力を怠らず、おのおの責任を取らねばならない。

 人のいのちと暮らしは何ものにも優先されるという、当たり前の社会をつくるため、考えること、行動することを手放さない自分でありたいと、強く思う。作品を通じて未来への希望を語る画家の思いに呼応しながら、人類初の核攻撃を受けた広島で、ことしも3・11を迎える。

 53年名古屋市生まれ。中高時代を広島市で過ごす。91年「ジグソーステーション」で野間児童文芸新人賞受賞。「あしたは晴れた空の下で」「こぶたものがたり チェルノブイリから福島へ」「ワタシゴト 14歳のひろしま」など原発事故や原爆をテーマにした著書多数。広島市東区在住。

(2021年2月27日朝刊掲載)

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