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社説・コラム

『今を読む』 ジャーナリスト・映画監督 古居(ふるい)みずえ 飯舘村の母ちゃんたち

故郷に帰ってみたものの…

 2021年2月13日の夜も更けた頃、テレビ画面に東北、関東地域に緊急地震速報が鳴った。しばらくすると大きな揺れが来た。電球のひもが大幅に揺れる。とっさに10年前を思い出した。

 東日本大震災、そして福島第1原発の事故が発生した。取材で被災地を回っていた私に、福島県飯舘村が計画的避難区域に指定されたというニュースが飛び込んできた。全村避難となって追われていく住民の姿は、私が長年追って来たパレスチナの難民たちの姿と重なった。

 13年、同県伊達市の仮設住宅で、飯舘村から避難した菅野榮子さんと菅野芳子さんに出会った。私が撮った映画「飯舘村の母ちゃんたち~土とともに」(16年)の主人公である。

 当初はうちひしがれていた榮子さんと芳子さんは、仮設住宅の周りにある畑の土に触れるようになってから村での生活を思い出し、活力がよみがえったという。故郷に帰れるまで頑張ろうと二人は誓っていた。日々心は揺れながら、飯舘村の食文化を守る活動を続けた。

 最初はなかなか進まなかった村の除染は、16年にかけてものすごいスピードで進み、家の解体や除染の作業を終えた。今思えば、17年3月の国の避難指示解除に、間に合わせるためだったのだろう。

 住民たちから聞こえてきたのは作業のいいかげんさだった。除染されたのは住宅の周辺と田畑、家から範囲20メートルの木々だけで、飯舘村の7割を占める山は除染されない。それでは雨や風で放射性物質は山から運ばれてくる。春になって雪が解ければ山の水は川に流れ出す。また田畑は、表面をおよそ5センチ剝ぎ取って覆土を入れるが、それでは砂と石が混じってとても農地として使いものにならない。

 17年3月、国は飯舘村の帰還困難区域をのぞく全域の避難指示を解除した。避難が解除されると問題が解決したかのように思われがちだが、現実は違う。翌年、東電からの原発賠償金は打ち切られ、翌々年には住宅提供も打ち切られ、被災者にとっては厳しい生活が続いている。

 避難指示解除の前後には、村では復興という名のもとに、ふれあい館、道の駅、小中一貫教育の学校など、数10億もかけて次々とハコモノが作られた。村に帰るのはお年寄りがほとんどだが、肝心のお年寄りが日々必要とする、病院やスーパーはない。

 18年末、榮子さんと芳子さんは村に戻った。どうしても先祖からの土地に帰りたいとの思いが二人を決断させた。

 二人は、村に帰ったら唯一楽しみにしていたことがあった。飯舘村を支援するNPO「ふくしま再生の会」などが旧小学校の校舎を使って催す、お年寄りのためのくつろぎの場に行くことだ。

 しかし昨年、建物の老朽化などを理由に、旧校舎は取り壊されることになった。この場は、昔からこの地区の住民の寄合所で、青年団の集まりや神社の祭りなどお年寄りたちの思い出がたくさん詰まった場所だった。6年間の避難生活で、住民の間には世代によって分かり合えない溝ができていた。せめてお年寄りが元気なうちは、残してあげられなかったのだろうか。

 20年1月、ついに旧校舎は壊された。芳子さんは「こわされるところ見たくねえ」と解体の日は家を離れた。一昨年は、ほかの交流の場も相次ぎ壊された。

 古い建物が壊され、新しい建物が並ぶ飯舘村。その後、地区の公民館の近くに同じNPOによってお年寄りが集まる場はできたが、思い出は返ってこない。

 自然は戻らないし山にも行けない。長い避難による住民の不在で住宅地や耕作地には猿やイノシシが出没するようになり、野菜を作ってもやられてしまう。それでも二人は土で野菜や花を作るのをやめない。ナスやキュウリを作り、ダリアを畑で育てている。満足はできないが、以前の生活を懸命に取り戻そうとしている。

 あれから10年。事故の傷は癒えるどころか、先の見えない闘いが今も続いている。

 48年島根県生まれ。88年からパレスチナなど紛争被災地で、女性や子どもに焦点を当て取材活動、映画製作を続ける。06年監督映画「ガーダ、パレスチナの詩」で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞。11年の東京電力福島第1原発事故後、福島県飯舘村に通い取材を続ける。東京都在住。

(2021年3月9日朝刊掲載)

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