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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 3・11とモニュメント 何を残すのか 開かれた議論を 彫刻家 小田原のどかさん

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から10年になる。被災地では復興が少しずつ進み、傷痕が見えにくくなっている。一方で、記憶を刻む碑の建設や遺構保存の議論もなされている。何のために、何を残すのか。モニュメントや公共彫刻について考察を続ける研究者で、彫刻家でもある小田原のどかさん(35)に聞いた。(論説委員・森田裕美、写真・田中慎二)

  ―10年前の大震災の日はどこにいましたか。
 仙台市出身ですが、当時は大学院生で東京にいました。都内のギャラリーで展覧会を見ている時、大きな揺れを感じました。大変なことが起こったと思いましたが、非日常で実感がなかったのを思い出します。

  ―古里が被災したのですね。
 実家とは4、5日連絡が取れませんでした。ただ両親も私も宮城県の地震に関する知識や覚悟のようなものがあったため、取り乱しはしませんでした。

 周囲のアーティストには、すぐ被災地に向かった人もいましたが、私は表現者として、同じ選択はせず、逆方向の長崎に向かいました。

  ―なぜ長崎へ。
 1946~48年に爆心地に矢羽根型の標柱が設置されていたことをその頃知ったからです。彫刻が「ここにある」意味を追求し、矢印をモチーフに制作していたのですが、それと似た標柱が存在していたことに興味が湧きました。教えてくれたのは3・11直後に目黒区美術館で開幕予定だった特別展「原爆を視(み)る」の担当学芸員でした。

  ―中止された展覧会ですね。
 原発事故の影響が続く中、放射線被害を扱う内容が不謹慎とされたためと言われています。とても残念でしたが、これ以上しんどいものを見たくないという気持ちも分かりました。芸術は癒やしや安らぎを与えるだけではなく、時に毒にもなります。だからこそ芸術は想像力を鍛えます。私はお蔵入りになったその展覧会からバトンを渡された気持ちになりました。

  ―被災地にも多様なモニュメントが残されています。
 モニュメントの語源は「思い出させる」とか「警告する」ことです。枯死した岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」がモニュメント化され、震災遺構の存廃も議論されています。

 地域ごとに実情があり、個別性のあるものをひとくくりに語れませんが、「何のために残すのか」と言えば、忘れないためであり、もっと言えば議論するためだと考えています。

  ―福島市に設置された現代美術家ヤノベケンジさんの大型彫刻「サン・チャイルド」が物議を醸した一件を思い出します。
 3・11を機に制作された防護服の子ども像はそれまでも美術展などで発表されてきました。放射性物質の心配のない世界を取り戻した未来を表していましたが、2018年、公共の場に展示されると「風評被害を増幅させる」と批判が起きました。

 すぐに市長が撤去方針を示し、1カ月余りで解体されました。あまりに早い幕引きで、いったい何が問題だったのか総括も検証もなされませんでした。

  ―何が問題でしたか。
 公共空間の造形は美術展と違い、作家が込めた意味や背景を共有した人ばかりが見るのではありません。だから設置には住民とのコンセンサスが必要です。「サン・チャイルド」の設置は、行政がトップダウンで決め、開かれた議論がなかった。さらに撤去により、「なかったこと」にされました。

  ―教訓は生かせますか。
 問題が起きるとネガティブに捉えられがちですが、私はつまずきをポジティブに捉え、議論につなげたい。何を残すのかという問いは、何を新しく設置するのかと一体で、碑や建築物でも同じことが言えます。

  ―注目する碑がありますか。
 岩手県大槌町で高校生たちが建てた木の碑です。かつて津波を警告する石碑があったのにいつしか忘れられ、多くの命が失われたことから、あえて朽ちていく木を素材にし、建て替えることで記憶や防災意識を持続させようというのです。素晴らしい着眼だと思いました。

 私たちはモニュメントにもっと意見を言っていいし、議論する必要があると思います。

おだわら・のどか
 85年生まれ。多摩美術大彫刻学科卒、東京芸術大大学院、筑波大大学院修了。芸術学博士。19年から多摩美術大非常勤講師。共著に「彫刻の問題」、編著に「彫刻1」など。広島市現代美術館のゲンビどこでも公募・池田修賞(15年)ほか受賞多数。東京都在住。

■取材を終えて
 何かを伝え、記憶するため建てられたモニュメントはいつしか日常風景の一部となり、私たちは無批判に眺めていないだろうか。何のためにここにあるのか。考え、議論することは、記憶をつなぐことにもつながる。

(2021年3月10日朝刊掲載)

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