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関千枝子さんを悼む 中山士朗 「やってみたら」に背中押され 反骨心 最後まで健在

 被爆者でジャーナリストの関千枝子さんが亡くなりました。関さんは国泰寺高(前身は旧制広島一中、広島鯉城高)の2学年下で、早稲田大文学部ロシア文学科でも後輩でした。昭和25(1950)年に構内で先方から「中山さんですね」とあいさつされたことが、今も記憶に残っています。

 突然の訃報に接し、私の頭の中は、いまだに整理されていません。どちらかといえば寡黙な人でしたが、ただ「やってみたら」と言われたことが強く思い出されます。

 私が東京の家を売り払って別府湾を一望できる高台に移住してきたのは、平成4(92)年3月のことでした。その頃にはまだ、広島と別府を結ぶ瀬戸内航路の船が通っていて、広島生まれの私はそれに乗って一度、広島に行ったことがあります。それから程なくして、その定期船は姿を消してしまいました。

 私たちが引っ越してきて間もなく、関さんが不意に「新居拝見」といって姿を見せたのは驚きでした。博多に寄ったついでにと、名物の辛子めんたいこを持って現れたのでした。その日は、別府市内のいけすに泳いでいる魚を選んで料理してもらう日本料理店に案内し、私の家に泊まってもらいました。その頃、私の妻も健在で、親しく接したのはこの時一度限りでした。

 それ以前から私は東京で、勤めながら創作活動を続け、「薬事日報」という業界紙に長年にわたってエッセーを執筆していました。別府に移住してきて、大分合同新聞のコラム欄に執筆した原稿もたまり、合わせて本にしたいと思いながら暮らしておりました。そのことを知った関さんは「やってみたら」と本にすることをすすめ、東京に戻るとすぐ西田書店を紹介し、話をまとめてくれました。

 それが随筆集「原爆亭折ふし」として仕上がると、今度は日本エッセイスト・クラブ賞に推薦してくれました。そのおかげで、私は受賞したのでした。あの関さんの「やってみたら」の一言から、始まったことだったのです。

 亡くなる直前の2月14日には例年のように、バレンタインのチョコを送ってくれました。それには次のような言葉が添えられていました。

 あなたの素晴らしいおはたらきに、心から「愛の義理チョコ」を送らせて頂きます。この「チョコ」は、2006年に始まりました。イラクの子どもたちが劣化ウラン弾で、小児がんで苦しんでいるので、その支援に、という趣旨を聞いて、私はヒバクシャとして恥ずかしい思いになりました。放射能をまき散らす武器が蔓延(まんえん)しているのに、何もできない自分が恥ずかしくて、せめてこのチョコで少しの支援ができればと思いました。

 そして、最近は劣化ウラン弾という言葉も聞かない、なくなったのだろうか、そんなことはないはずだ―とつづっていました。その反骨心は最後まで健在でした。関さんとは「ヒロシマ往復書簡」(西田書店)のシリーズも出す間柄でしたが、もう二度と手紙も交わせないかと思うと、寂しい限りであります。(作家・被爆者=大分県別府市)

    ◇

 関千枝子さんは2月21日死去、88歳。

(2021年3月16日朝刊掲載)

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