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社説・コラム

バーナード・ラウン氏を悼む 命を守る延長に反核運動

■客員特別編集委員 田城明

 米東部ボストン市郊外の自宅でバーナード・ラウン氏が死去した、との訃報に接して1カ月。あらためて医師として半世紀以上にわたり、核兵器廃絶・平和のために働き続けた偉大な功績を思わずにはいられない。

 ラウン氏と初めて会ったのは1986年6月。核戦争防止国際医師会議(IPPNW)がノーベル平和賞受賞を機に、核戦争の脅威を伝える「グローバルキャンペーン」を実施し、広島を訪れた時のことである。多忙な中、快くインタビューに応じてくれた。気さくで、温かみのある人柄が、強く印象に残った。

 2度目の広島訪問となった89年3月には中国新聞社を訪ね、当時の山本朗社長(故人)らと対談。7カ月後の10月に広島で開催する第9回IPPNW世界大会の意義などについて意見を交わした。「原爆で多くの従業員が犠牲になった中国新聞も被爆者です」との説明に深くうなずき、「世界平和の確立」をうたった社是に強い関心を示した。

 「核戦争防止」「核兵器廃絶」を目標にするIPPNWにとって、「マスメディアに強い味方を得た」との思いを強くされたのだろう。欧米のマスコミからは、「ソ連の手先ではないか」と誤解されることも多かったからだ。

 折しもラウン氏は、自らの考えやIPPNWの取り組みについて、世界中の多くの人々に知ってもらいたいと原稿を執筆中であった。対話の中で本紙への寄稿が決まり、「病める地球を癒(いや)すために」と題して、7月から2年間、ほぼ毎月1回、長文の論考をファクスで寄せてくれた。

 原稿は毎回テーマが違った。豊かな語彙(ごい)、流麗な文体。一行一行に深い意味がこめられ、説得力があった。「軍拡競争のツケ」では、膨大な軍事費によって米国内の教育や保健行政などの民生面が衰退し、貧困者や犯罪が増加。核超大国の安全保障が社会の内部から崩壊していくさまを活写した。

 心臓病患者と向き合ってきた体験に基づく「言葉の治癒力」では「丁寧な問診や患者との会話の重要性」を強調。「患者は生命が危険であるのを自覚しながらも、心から医師を信頼し満足することで、健康を取り戻すことがあるものだ」とつづる。そこには医師として一人一人の患者に誠実に接し、生命を守るという「医の倫理」が宿る。ラウン氏にとってIPPNWの活動も、核戦争の脅威からすべての人々の命を守ろうとする「医の行為」の延長だったのであろう。

 核戦争がもたらす人類破滅の危機を医学的立場から、世界中の人々や政治指導者らに訴えてきた半生であった。こうした取り組みが、今日の核兵器禁止条約発効の礎ともなった。

 「核抑止政策は邪悪で不道徳」―。こう力説したラウン氏の次の言葉を今も忘れない。「広島・長崎市民、そして日本人は核抑止力依存という悪に対して、ささやくような小声であってはならない。日本政府を動かし、声を大にして核兵器廃絶を世界の人々に訴えてほしい」

 核戦争の悲惨さを最も知る被爆地市民、被爆国日本への期待である。が、今なお米国の「核の傘」に依存し、核兵器禁止条約にも背を向ける日本政府…。ラウン氏の期待に応え、変革をもたらすのは決して容易ではない。しかし、その道を粘り強く歩み続けることこそ、氏の遺志を引き継ぐことにほかならない。

 1921年、リトアニア生まれ。35年、家族と米国へ移住。ジョンズ・ホプキンズ大医学部卒業。61年、ハーバード大公衆衛生所付属の心臓病研究所長。心臓蘇生「直流除細動器」開発の先駆者。80年に旧ソ連のエフゲニー・チャゾフ氏らと「核戦争防止国際医師会議」(IPPNW)を創設、共同会長。85年、同会議を代表してチャゾフ氏と共にノーベル平和賞を受賞。93年から名誉会長。著書に「病める地球を癒すために」(中国新聞社)など。2月16日、99歳で死去。

(2021年3月16日朝刊掲載)

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