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今を読む 遠い被爆者手帳

事者に立証を強いるな

 昨年夏、私は、韓国で被爆者健康手帳がいまだ取れない54人分の陳述書を韓国原爆被害者協会から入手した。

 「両親は早く亡くなり、被爆した町名がわからない」「3日目に見つかった父は大やけどで…」。切実な訴えが詰まっていた。韓国原爆被害者を救援する市民の会では早急に各地を回り、直接聞き取りをすることを決めた。昨年から3回訪問したが、陳述書も出していない声なき人々の方が多いことが分かった。

 この6月、慶尚南道陜川(ハプチョン)郡の山里に李次性(イチャソン)さん(96)を訪ねた。娘さんが耳元に口を寄せ、大声で聞く。「広島のどこに住んでた?」

 「観音町(西区)よ。空襲警報解除で安心しとったら突然ドーンと家がつぶれて下敷きになったんよ」。彼女は両手を上げ、前に倒れてみせた。「やっとはい出したら服がのうなって、そこら中に稲束みたいに死体が転がっとった。救護所で、頭にもけがしとるいうて、髪の毛をそって薬を塗ってもろうたんよ」

 李さんの話は被爆前にも及んだ。「そのころ缶詰工場の月給が50円くらい。私は裁縫が得意じゃったけえ、縫い物をしたら1日で3円もろうた」

 韓国生まれの娘さんは「10年前まではもっと詳しく話してくれたんですが、どんどん忘れていきます」と嘆いた。日本名は「まさこ」だったという。夫は亡くなり、証人はいない。

 同行した協会の沈鎮泰(シムジンテ)陜川支部長は「この人が手帳を申請するとなると、広島市の調査は電話だけだから難しい。こちらまで来てくれる長崎に申請するしかないな」と言った。

 可部町(安佐北区)の国民学校に通っていた兄弟は「父と一緒に大勢の負傷者を寺の境内に運び、水を含ませ、手当てを痛がる体を押さえました。遺体を河原に運んで焼きました」と証言した。

 しかし、2006年に「寺の名前が分からないため場所が特定できず、認められない」と広島県から申請書を返送されていた。私たちは可部で古くからの住人に話を聞き、戦前の地図に目を凝らし、寺の写真を撮影。そんな地道な作業を続けてきた。

 そして、写真を見た2人は今回、「この寺です」と答えたのだ。もっと早く彼らの目となり、耳となり、口となって一人一人に寄り添うことが必要だった。

 厚生労働省の担当者は「手帳を取る困難さは、日本人も外国人も同じ」と繰り返す。しかし、それは断じて違う。

 旧厚生省は1974年に発した402号通達で「日本国外に出れば手帳は無効」としたため、手帳を取っても韓国内では紙切れ同然だった。通達が廃止される03年までの間に多くの人が世を去り、証人を失って手帳を取得できない人たちが残された。

 その結果、韓国原爆被害者協会が67年にできたころからの会員であり韓国では「被爆者」と認められていても、日本では手帳が取れず「被爆者」ではないという事態が生じてしまったのだ。

 高齢者施設に入院している人も増えた。子どもが見舞っても反応のない人に「広島生まれです」と自己紹介すると、目が輝き、「広瀬小を卒業したんよ」「わたしゃ横川よ」と広島弁が返ってくる。体調や相手によって昔の記憶がよみがえる。だが無念にもその先はかすんでいる。

 日本の役所が持っている資料と完全に合致しなければ、審査は不合格なのか、すなわち「被爆者」ではないのか。

 長く援護の対象外に置かれた在外被爆者が402号通達の違法性をめぐる損害賠償請求訴訟に勝ち、問題は解決したと思っている人もいるだろう。だが、認められるべき被爆者がこぼれ落ちているのだ。

 長崎地裁は「韓国人原告の陳述は信用できる」として今月9日、証人なしで手帳交付を命じた。高齢の当事者に詳しい立証を強いるのではなく、被爆地は長年の蓄積も、人手も、録音・録画機材も駆使して、申請内容を裏付ける方向に転換してほしい。

 「あの日」、同じ空の下にいた人々が「被爆者」と認められ、せめて援護の空白を取り戻せるように。

河井章子
 56年広島市生まれ。津田塾大卒。放送局勤務を経て87~90年ソウル・延世大留学。日本語教師を務める傍ら、在韓被爆者の手帳取得を支援。韓国語共訳に「平和のパン種」(松井義子著)など。千葉県流山市在住。

(2013年7月20日朝刊掲載)

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