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遺品 無言の証人

[無言の証人] 被服支廠に運ばれた生徒の衣服

熱線で焼け 切れ端に

 焼け焦げ、切れ端だけになったズボンと地下足袋が熱線のすさまじさを物語る。山陽工業学校(現山陽高)1年生だった木下義治さん=当時(13)=が最期に身に着けていた。臨時救護所となった広島市出汐町(現南区)の広島陸軍被服支廠に運び込まれ、その日のうちに息を引き取ったという。

 爆心地から約1・2キロの雑魚場町(現中区)で建物疎開作業中に被爆し、全身大やけどを負った。父親の布哇一(はわいち)さん(当時47歳)は負傷者が収容されている国民学校や寺を回り、夜遅くまで捜し歩いた。心身は疲弊し「ここを最後に」と7日夕刻たどり着いたのが被服支廠だった。

 倉庫2階へ続く階段を上る途中、担架に乗せられた遺体の荷札に目が留まった。「安佐郡八木村」「木下義治」―。全身包帯が巻かれていたが、わが子と確信した。火葬される寸前だった。

 8日未明、遺体と一緒に持ち帰った遺品は、1972年に三男の勝行さん(87)=安佐南区=が原爆資料館へ寄贈した。ことし2月、本館の常設展示が大幅に入れ替えられ、義治さんの形見も21人の学徒の遺品とともに「8月6日の惨状」を伝える集合展示に加えられた。(桑島美帆)

(2021年4月19日朝刊掲載)

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