×

ニュース

[ヒロシマの空白] 不明生徒の最期 兄が手記 動員中に被爆し全滅 二中の1年生 平和祈念館に元同僚寄贈

 広島二中(現観音高)1年で被爆死した増川忠さんの兄の勲さんが、弟の最期をつづった手記を残していた。忠さんは、二中生徒の死没状況を追った1999年の中国新聞連載「遺影は語る」で詳細が分からなかった生徒の一人。勲さんの元同僚、桐藤直人さん(74)=兵庫県西宮市=が今年3月、「記録に残してほしい」と国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)に手記を寄贈した。(明知隼二)

 手記は、兵庫県教育センターが83年にまとめた「平和教育のための脚本集」に収められていた。神戸市立中の数学教師だった勲さんが「いしぶみ」と題し、体験を短く記している。

 それによると45年8月6日、旧制広島高(現広島大)2年だった勲さん=当時(19)=は、体調不良で呉海軍工(こう)廠(しょう)への動員を休み、牛田町(現東区)の自宅で被爆した。忠さんは本川左岸の旧中島新町(現中区)での建物疎開作業に動員されており、この日は戻ってこなかった。

 翌7日、消息を頼りに西練兵場(現中区)で見つけた忠さんは、顔や手足にひどいやけどを負っていた。「『来たぞ、頑張れ』と言うと、弟は『死ぬもんか、死ぬもんか』と」。間もなく息を引き取った忠さんを連れ帰り、琴の箱に入れて火葬した。自宅近くで被爆した母も4年後に死去。47年に尾道市で教師として働き始めたとしている。

 その後に神戸市へ移ったとみられる勲さん。同じ中学校で働いていた桐藤さんが「あの日のことを生徒に話してもらえませんか」と頼んだのは82年だった。20歳以上離れた先輩教員の勲さんが被爆者と知ったからだ。自身は戦後生まれだが、社会科教師として平和教育への関心は強かった。

 夏休みの登校日、受け持っていた3年生300人超が、静まりかえって証言を聞いた。生徒の前に立ってなお、しばしためらってから「37年前」の出来事を語り始めた勲さんの姿を記憶する。その後、手記の執筆も引き受けてくれた。

 忠さんたち現場にいた二中1年生は全滅し、慰霊碑は後の判明分も含めて323人の名を刻んでいる。連載「遺影は語る」は2000年時点で282人の最期を明らかにしたが、忠さんは遺族も死没状況も不明だった。同窓会も関係先を把握できていなかった。

 忠さんと同じクラスだった中野英治さん(88)=東広島市=は入院先で電話取材に応じ「クラスで頭の良い2人のうちの1人だった。行方不明の級友も多い中、こうして経緯が分かるのはありがたい」と話した。

 桐藤さんは今年1月の核兵器禁止条約発効を機に手記の内容を調べ、「遺影は語る」など過去の報道で忠さんの最期が「不明」のままだと知った。職員録を頼りに勲さんを捜したが見つからず、祈念館に手記を寄せた。「歴史の空白を少しでも埋める記録を残したかった。ほんの数年、職場を共にした縁だが、つらい記憶を語ってくれた先生への恩返しです」

(2021年4月22日朝刊掲載)

年別アーカイブ