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社説・コラム

『潮流』 ある地方政治家の自覚

■特別論説委員 佐田尾信作

 最近ひょんなことから森沢雄三という地方政治家を知った。戦後間もない1947年の広島県議選・広島市区で無所属新人ながらトップ当選した人物だ。

 森沢は呉市阿賀のかまぼこ店の息子。苦学の末、広島市役所に入って水産行政で頭角を現し、戦後は県政界に入る。同じ47年には初代公選市長の浜井信三に請われて、市の助役にも就任した。議員と特別職の兼職が当時の法律では可能だったことに驚かされる。

 両氏は戦前から旧知の間柄だった。浜井が本紙に連載した手記「原爆十年」によると、森沢のような世慣れた人物は県政との関係で好都合だと考えたこと、当初は本人も固辞したこと、古手の議員が反対したこと―などがうかがえる。

 助役在職中には平和記念都市建設法制定の請願に関与した。森沢の回想によると、この政治運動はおまえがやれ―と浜井に上京を促され、国会の各党重鎮への根回しに歩く。ついには時の首相吉田茂を前に一席ぶつと、吉田は次第に身を乗り出してきたという。

 森沢の長男紘三さん(77)=広島市西区三滝町=は「当時の浜井さんと父は青年市長に青年助役。コンビで市政を刷新しようと考えていたようです」と言う。浜井は政界工作は森沢に頼ったとみられるが、あつれきでもあったのか、助役在職は3年と短かった。

 森沢の逸話でもう一つ、驚かされたことがある。助役退職に伴う慰労金を、平和記念公園内にある原爆供養塔の予算に全額寄付したことだ。森沢は娘2人を原爆で亡くしていた。「父は生涯、借家住まい。やっと最後に私が買ったマンションに住んでくれました」と紘三さんは思い出す。

 生かされたわが身だと常に自覚していたのか。それが政治姿勢にも投影されていた。訳ありの国会議員が歳費を受け取り続けた今との開きは何だろう。

(2021年4月26日朝刊掲載)

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