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弟の形見 被爆弁当箱 自宅に保管 慰霊祭 28日も参列へ

 広島市中区に住む大井孝三さん(83)は、被爆の翌日、広島一中の焼け跡で弟礼三さん=当時(12)=の弁当箱を見つけた。3年と1年生だった。「周りも白骨姿となっていて弁当箱が本当の形見です」と仏壇で今も保存する。後身の国泰寺高で営まれる「広島一中原爆死没者慰霊祭」への参列は欠かさない。

 1945年8月6日、兄は戸坂村(東区)の疎開宅から東洋工業(マツダ)へ。軍用機のピストンを造る学徒動員が続いていた。弟は雑魚場町(中区国泰寺町)の一中に登校する。

 「やんちゃな礼三が『学校へ行きとうない』と言ったり、帽子を忘れて取りに戻ったりしたそうです」と、「あの日」を語った。

 原爆は爆心地から約5・3キロ離れた工場の屋根をも吹き上げた。避難を共にした級友の伊東壮さん(後に日本被団協代表委員。2000年死去)を泊めた疎開宅に、弟は翌日も帰ってこなかった。

 父三九男(さくお)さん(84年死去)は次男礼三さんを捜して似島も回り、兄は一中へ向かった。

 爆心地約900メートルの校舎は全壊全焼。1年生の教室跡を掘り返すと、「6、7人が白骨となった」中から弟がふたに名前を彫っていたアルミ製弁当箱が出てきた。プールでも「10人とはいわん生徒が死んでいました」。

 翌46年結成された一中遺族会を、父は秋田正之会長(75年死去)らと物心両面で支える。会は48年に「追憶之碑」を学校正門わきに設け、66年には「被爆学徒動員慰霊慈母観音像」を平和大通り近くに建立する。孝三さんは2007年に代わるまで会長を30年にわたり務めた。

 教職員16人と生徒353人が犠牲となった一中慰霊祭は、毎年7月第4日曜日に営む。

 「8月6日は静かに祈る日。声高に叫ぶ日ではない」との親たちの思いを受け継ぐ。続けてこうも語った。

 「慰霊し、思い出すことで死者は生き続ける。弟たちも生きとったら原爆は許せんと言うでしょう」。68年の今年は28日に営む慰霊祭で「追憶之碑」に手を合わせる。(編集委員・西本雅実)

(2013年7月25日朝刊掲載)

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