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世論反対 使命感で動く ペルシャ湾派遣部隊指揮官・落合さんに聞く

立場変化 制度整備を

 自衛隊初の海外派遣となった1991年の掃海部隊ペルシャ湾派遣。掃海母艦はやせに乗り込み、6隻511人の部隊の指揮官を務めたのが、当時、海上自衛隊呉基地所属の1等海佐だった落合畯(たおさ)さん(81)=神奈川県鎌倉市=だ。30年前を振り返っての思いなどを、オンライン取材で聞いた。(池本泰尚)

  ―初の海外派遣で、政府内の混乱も報じられました。記憶に残ることを聞かせてください。
 普通なら半年はかけて準備するような任務だが、約1カ月しかなかった。現地の情報も少なく、何がどのくらい必要かも分からない。間に合わなかったら現地から送れと言おうと腹に据え、夢中で準備した。

  ―世論は賛否が分かれました。
 われわれにとっては、否ばかりというのが実感だった。20隻に警護されて出発したが、その奥には60隻の抗議船がいた。だが、日本がエネルギー源の多くをペルシャ湾沿岸に頼る状況から、国際的な義務を果たすべきだと考えていた。使命感だけで動いていた。

  ―188日間の任務を振り返り、印象深いことは。
 到着した時点で、既に8カ国が作業中。残っているのは湾の奥で、砂漠の砂が流れてくる、浅くて流れが速い、視界が悪い、海中にオイルパイプがあるといった難所だった。一年で最も暑い時期。気温は50度にもなるのに、ばい煙と砂煙で太陽はかすんで見えなかった。

 機雷の処理の前に隊員が確認潜水をする。水深30メートルだとワンダイブ8分くらい。5分くらいまでは普通だが、6分を過ぎると心配になってね。当時たばこを吸っていたが、吸いながら気持ちが落ち着かず、もう1本火を付けたこともあった。あれほど嫌な3分はなかった。8分たつとダイバーが浮かんできて、手で丸を作る。その時の安心感というのは忘れられない。

  ―隊員にどんな言葉を掛けましたか。
 事あるごとに、三つを念頭に置くようお願いした。一つ目は、安全第一。判断に迷ったら安全な方に転ぼう。二つ目は、心配させないよう家族と連絡を取れ。三つ目は、絶対に任務をやり遂げよう。物静かな隊員が多かったが、士気は高かった。

  ―現地で国内の議論とのギャップを感じましたか。
 派遣前から「国連決議に基づいた派遣ではない」「日本は多国籍軍に入ったわけではない」と、この二つは何度も聞かされていた。だが現地で、米中東艦隊の司令官から「俺たちはチームだろう。同じ軍だ」と言われ、国内の理屈は通用しないと感じた。他国に警護されながらの活動には、情けなさもあった。

  ―結果的に、自衛隊の海外派遣が定着していく転換点になりました。
 さまざまな形での国際貢献につながっていったことを考えれば、本当に行って良かったと思う。国内での自衛隊の立場は確実に変わり、国際的な評価も変わってきた。だからこそ、派遣された隊員が思い切り任務を果たせるよう制度を整えるべきだ。

<自衛隊の海外派遣を巡る主な動き>

1991年4月 海自掃海部隊がペルシャ湾へ
  92年6月 国連平和維持活動(PKO)協力法成立
  92年9月 海自海上輸送補給部隊をカンボジアへ派遣
  94年9月 ルワンダ難民救援隊派遣
  99年3月 北朝鮮の工作船事件で自衛隊初の海上警備行動
  99年5月 周辺事態法成立
2001年11月 テロ対策特別措置法に基づき海自をインド洋へ派遣
  04年1月 イラク復興支援特別措置法に基づき陸自をイラクへ派遣
  07年1月 防衛省発足。海外派遣が「本来任務」に
  09年3月 海自をソマリア沖へ派遣
  09年6月 海賊対処法が成立
  16年3月 安全保障関連法施行
  16年11月 「駆け付け警護」などに対応する陸自部隊を南スーダンPKOに
         派遣
  19年4月 国際連携平和安全活動を適用し多国籍軍・監視団(MFO)の司令
        部要員に陸自幹部をエジプトへ派遣
  20年1月 防衛省設置法の「調査・研究」に基づき海自を中東海域へ派遣

(2021年4月26日朝刊掲載)

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