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広島銀前身の「戦災写真帖」見つかる 惨禍乗り越え営業継続 天井・壁 被爆の痕跡生々しく

 ひろぎんホールディングス(HD、広島市中区)は来月6日、紙屋町の旧本店跡地に戦後3代目となる新社屋を開業する。原爆犠牲者の慰霊スペースや、史料室「記憶の金庫ミュージアム」を新設し、惨禍を乗り越えた足跡を継承していく。広島銀行(中区)から寄託され、広島県立文書館(同)が保管してきた写真や記録文書を通して、復興史をたどる(桑島美帆)

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 電灯がつり下げられた薄暗い部屋で、背広姿の男性たちが業務に当たる。天井や壁はコンクリートがむき出し、原爆被害の痕跡が生々しい。芸備銀行本店の「戦災写真帖(ちょう)」にある1枚だ。

 49枚のモノクロ写真は、穴が開いた接客カウンターや爆風で扉が曲がったエレベーター、壁が壊れた頭取室などを捉える。被爆1、2年後の撮影とみられ、1949年に用度課が編集したという。

 「焼け残った机や椅子を拾って来て、たき火をしながら、煙の中で仕事をした」「営業部で仕事をしていると、天井からコンクリートの塊が落ちて来た」―。写真を裏付けるような行員たちの証言が、79年発行の「創業百年史」に記されている。

 5階建ての重厚な外観の本店は27年に建てられた。45年8月6日は、8時半から月曜の朝礼の予定だった。8時15分、約260メートル西の上空で原爆がさく裂。火炎に襲われた本店内に、死傷者が折り重なった。通勤途中や建物疎開作業に当たっていた義勇隊を含め144人が犠牲になった。

 「銀行者としては、民生安定のためにも速やかに機能を再建して経済疎通につくさねばならぬ」。猛火をくぐり、郊外の自宅から駆け付けた伊藤豊副頭取(72年に87歳で死去)の指揮で8日、日本銀行広島支店を間借りし営業を再開。押し寄せる被災者に、通帳や印鑑がなくても自己申告で預金や火災保険の給付金を支払った。

 けがを負い、家族を失った行員が多かった。放射線の急性障害で息絶える者も相次いだ。脱毛と下痢で死期を悟りながら、本店に残高などを報告に来た後、絶命した支店の預金課長代理もいたという。

 ひろぎんHDは今回、旧本店屋上にあった「役職員物故者慰霊碑」を新社屋の公開緑地に移設。慰霊スペースを新たに設けた。別の社有地に置かれていた芸備銀行本店の被爆柱頭もここに移した。広島銀行総合企画部は「原爆被災を乗り越え営業を継続してきた企業精神を全従業員へ継承し、国内外へ平和を発信し続ける」としている。

「郷土復興」掲げ積極融資

ゼロから再建後押し

 広島銀行が県立文書館に寄託した資料は約9千点に上る。「創業百年史」を編さんする際、収集した資料が中心だ。1878(明治11)年11月に尾道市で「第六十六国立銀行」として創業して以来の社内資料に加え、被爆後の復興を伝える貴重な記録も多い。

 「来る八月六日は戦災記念日に相当致します。二ケ年前の当時を追懐して、一夕懐旧談に花を咲かせたいと存じます」。1947年8月5日、伊藤豊副頭取を筆頭に結成された「戦災生残り会」の記録には、本店内で被爆した行員や、焼け跡で業務再開に当たった役員が集い、思いを新たにした様子がつづられている。

 芸備銀行は戦後「郷土復興!先ず預金‼」と呼び掛け「100億円突破運動」を実施。49年には、賞金付きの「平和定期預金」を始めた。石井重人元常務(90)=安佐南区=は「平和定期で随分資金を集めた。とにかく預金を集めて、融資するのが仕事だった」と振り返る。

 まだ占領下だった被爆5年の50年8月6日、平和都市ヒロシマにちなみ「廣島銀行」へ社名を変更。ゼロから再建を目指す地場企業や老舗商店へ積極的に融資した。52年に本店営業部貸付課長だった西原千久人元専務(87年に73歳で死去)は、担保がなくても「人物を見て融資を判断した」と証言している。

 寄託資料のうち、被爆した支店の金庫で一部焼け焦げた文書や平和定期預金証書など59点が昨年度、広島銀行に返却され史料室の展示に生かされた。県立文書館の西向宏介主任研究員(55)は「終戦後間もない広銀の動きが伝わってくる。一企業の枠を超え、復興期の広島の経済を物語る貴重な資料だ」と話す。

史料室開設に協力した元行員で被爆者の田辺さんに聞く

8・6翌日の本店 まだ燃えていた

 「戦災写真帖」を含む約9千点の資料収集のきっかけとなった「創業百年史」を編さんし、史料室の開設に協力した元行員で被爆者の田辺良平さん(86)=広島市東区=に聞いた。

 1953年に入行した後、62年から長年、本店文書課で社内報などを担当した。本店と市内の支店は資料の大半を焼失していたが、空襲に備えて三次支店に疎開させていた取引記録や、各支店の古い資料が残っていた。被爆した行員がたくさんおり、聞き取りや手記の収集ができた。

 戦争中、父(平夫さん、当時42歳)は芸備銀行調査課で働いていた。8月6日は行内で結成された義勇隊に加わり、約65人の同僚と爆心直下の天神町(現中区)で建物疎開作業に参加することになっていた。

 翌日、母と一緒に父を捜しに中心部へ入ると本店はまだ燃えていた。日本銀行広島支店の地下1階に泊まり、3日ほど捜したが遺骨は見つからず、職場から出てきた湯飲みを墓に入れた。母は8月下旬までとどまり、行員にお茶を出したり負傷者の手当てをしたりした。

 戦後、銀行も企業も「立ち上がらにゃいけん」という思いで絆を大切にしていた。だが世代が変わり、次第に過去を振り返る人は少なくなった。電車や電気と違い、銀行の戦後復興が語られることは少ないが、お金の流れは地域経済の血液。金融機関がいかに被爆地の復興に貢献したかをもっと知ってほしい。

(2021年4月26日朝刊掲載)

関連写真:芸備銀行本店「戦災写真帖」

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