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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 南口勝さん―弟の遺体 無心で焼いた

南口勝(なんこう・まさる)さん(90)=広島県府中町

「非人道的」知りながら投下 怒り今も

 南口勝さん(90)は、12歳だった弟修さんを原爆に奪(うば)われました。「非人道的被害を及ぼすことが分かっていながらあえて投下した。絶対に許せない」。米国への怒(いか)りを、新聞の投書欄(とうしょらん)で繰(く)り返し訴(うった)えてきました。

 県立広島第一中学校(広島一中、現国泰寺高)の3年生、14歳でした。授業はほとんどなく、府中町の東洋工業(現マツダ)で働いていました。戦争中、中学生も軍需工場(ぐんじゅこうじょう)に動員されたためです。朝鮮半島出身の徴用工(ちょうようこう)も多く見かけました。

 あの日、南口さんは完成した銃を地下の射撃場(しゃげきじょう)に運ぶ担当でした。突然、青白い光が見え、その後辺りは真っ暗に。ほどなくして帰宅命令が出たため、大州街道を通り、宇品町(現広島市南区)の自宅を目指しました。

 比治山の上に大きな雲が広がるのが見え、逃(に)げ惑(まど)う人とすれ違(ちが)いました。家に着いたのは昼前ごろ。広島一中の1年生だった修さんはまだ戻っていません。爆心地から約1キロの雑魚場町(ざこばちょう)(現中区)付近で建物疎開作業(たてものそかいさぎょう)に当たっていたのです。

 捜(さが)そうと御幸橋(みゆきばし)まで行きましたが、けが人であふれ、橋の向こうに火の手も見えたため引き返しました。母静子さんと御幸通りに面した自宅前で弟を待っていると2時半ごろ「段原へ逃げておられましたよ」と、見知らぬ男性が近づいてきました。自転車の荷台に弟を乗せて連れ戻(もど)してくれたのです。

 「修ちゃんが帰ってきた!」。静子さんが急いで抱きかかえ、ふとんに寝かせました。パンツ1枚の姿で皮膚(ひふ)はぼろ切れのように垂れ下がり、顔や頭は真っ赤に腫(は)れています。革ベルトをしっかり握(にぎ)り締(し)めていました。両親が贈(おく)った広島一中の合格祝いでした。

 「やけどをした人に水を与えると死ぬ」と触(ふ)れ歩く人の声が聞こえ、ガーゼに水を含ませ口を湿(しめ)らせる以外手の施(ほどこ)しようがありません。6日夕、一瞬大きく両腕を広げた後、息を引き取りました。「海洋少年団で習った手旗信号で、別れの合図をしたのかもしれん」―。学芸会で主役を務めるなど、活発な弟でした。

 深夜、兄隆(たかし)さんが動員先の呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)から歩いて戻り、家族3人で亡きがらを囲んで一夜を明かしました。翌日の夜、兄と遺体を近所の空き地へ運び、廃材(はいざい)を集めて焼きました。至る所で煙が上がっていましたが「悲しむというより無心で焼いた。戦争で異常な感覚になっていた」と振(ふ)り返ります。

 終戦後は新制の広島大政経学部へ進学し、1953年に広島銀行へ就職しました。主に審査部門(しんさぶもん)を担当。地場企業の復興に携(たずさ)わり、専務まで務めました。29歳で結婚した7歳下の孝代さんとの間には、1男3女に恵(めぐ)まれましたが、孝代さんは99年に61歳で他界します。急性骨髄性白血病(きゅうせいこつずいせいはっけつびょう)でした。幼少期の被爆との関係を示唆(しさ)する医師もいたそうです。

 修さんが握り締めていたベルトを、形見として仏壇(ぶつだん)に納めました。静子さんは、朝晩取り出し、抱き締めたり触れたりしていましたが「後世に役立てよう」と2004年に原爆資料館へ寄贈(きそう)。その5年後、102歳で亡くなりました。ベルトは最近まで本館に常設展示されていました。

 広島一中生の犠牲は353人。「罪のない生徒たちが悲惨(ひさん)な死を遂げた。広島と長崎であったことを絶対に風化させちゃいかん」と南口さん。原爆を使った米国の「核の傘(かさ)」が自国を守ってくれると考えている日本政府に対しても、90歳を超えた今、「被爆国としての義務と責任を忘れてはいけん」という思いを一層強めています。(桑島美帆)

私たち10代の感想

動画で次世代に継承を

 弟が自宅で息を引き取った話をする時、南口さんはとても苦しそうな表情になり、聞いている私もすごく苦しくなりました。被爆者と実際に会って体験を聞くと、当時の感情を自分のことのように感じられます。被爆者が少なくなる中、できる限り動画を残し、これからの世代も生の声を聞くことができるようにするべきだと思いました。(高2林田愛由)

同じ立場なら絶望した

 亡くなった弟を自らの手で焼いた体験は、想像を絶しています。昨日までそばにいた人が、肉の焦(こ)げる音、臭(にお)い、炎(ほのお)を上げて目の前で燃えていくのです。僕が同じ立場だったら弟が焼かれる姿を見て、絶望したと思います。大切な家族を失った人をたくさん生み出した核爆弾(かくばくだん)が、今でも世界中にあふれていることに、強い恐怖心(きょうふしん)を抱きました。(中3武田譲)

想像を超える悲惨な状況

 南口さんは、弟が全身やけどを負って亡くなったにもかかわらず「帰宅できて幸運だった」と話していました。遺骨すら見つかっていない人が大勢いるからです。もし私が同じ状況だったら「なぜ家族がこんな目に遭わないといけないのか」と思うはずです。原爆が投下された後の広島は、人の感覚を変えてしまうほど悲惨な状況だったことが伝わってきました。(高2桂一葉)

(2021年5月10日朝刊掲載)

動画はこちら



■被爆74年を迎えた2019年8月6日に、中国新聞の「広場」欄に掲載された南口さんの投稿

非核運動の結実望む

 無職 南口勝 88歳
 原爆投下から74年。あの日のことは忘れられない。私は旧制広島一中(現国泰寺高)3年、東洋工業(現マツダ)にいて助かったが、多くの同級生が動員作業で爆死や大やけど。中1の弟も爆死した。

 悲惨な非人道的被害を及ぼすことが分かっていながら米国はあえて投下。この罪は永久に消えない。絶対に許せないが、いまだに謝罪の言葉はない。3年前広島を訪れたオバマ前米大統領からもなかった。ノーベル平和賞に輝いた彼のあの声も遠くなった感がする。

 米国から核兵器削減の呼び掛けを全世界に向けて発してほしい。国民の意見はこれほど高まり世界の声も大きくなっている。運動だけで終わらせず、具体的に結実させねばならない。

 やがて被爆者がいなくなる。大切な日時が過ぎつつある。核兵器禁止条約に唯一の被爆国日本は賛成していないが、政府は今こそ世界の核兵器禁止に向け主導的立場に立ってほしい。(広島県安芸郡)

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