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[ヒロシマの空白] 被爆2年前 児童の決意 中島国民学校 元教員が43年の作文保管

一億一心になって銃後を守ります

執筆5人 死亡を確認

 1945年8月6日の原爆投下で壊滅した中島国民学校(現中島小、広島市中区)の児童が43年に書いた作文18編が見つかった。当時、同校の教員だった川口孝太郎さん(2003年に92歳で死去)の自宅に残されていた。2年後に被爆死し、遺骨が見つかっていない児童もおり、貴重な「遺品」とも言える。

 作文は400字詰め原稿用紙各1枚で、43年当時に6年生だった女子児童17人が書いた。テーマは「新学年の抱負」「山本五十六・連合艦隊司令長官の戦死」「食糧を生産する農家への感謝」の三つから選択し、2編書いた児童もいた。

 「低学年をかは(わ)いがり又(また)手本になるや(よ)うにしよふ(う)と思ふ」といった最上級生としての意気込みだけではなく、「一億一心になって銃後を守ります」などの記述もあり、戦時下の教育の影響が見て取れる。

 作文を保管していた川口さんは広島県師範学校(現広島大)を卒業し、中島国民学校には41年7月~45年6月に勤務。同年4月からは学童疎開の引率で三良坂町(現三次市)を訪れていたが、8月6日の米軍による原爆投下時には、河内国民学校(現河内小、佐伯区)に転任していた。

 「朝礼をすませて、下駄(げた)箱のところで、ピカっと光って、しばらくして大きな爆音をきき、東の山の上に原爆の雲がムクムクとあがりました」。川口さんは後に旧厚生省が被爆者実態調査で募った被爆体験記に、爆発の瞬間をそう書き残していた。

 中島国民学校は爆心地から約1・1キロ。連日、学校の救援隊の一員として市内に通った川口さんは「一週間位市内を自転車でまわりましたがたいへんな惨状は筆舌に尽くしがたい」とも記した。

 作文を書いた児童は既に卒業しており、女学校に進学して動員中に被爆したケースもあった。このたび中国新聞の取材で、執筆者17人のうち少なくとも5人は、資料などから被爆死を確認できた。ほか2人についても、動員学徒の名簿に同名の記載があり、学年などから本人の可能性が高い。

 「父はどんな思いで保管していたのでしょうか」。川口さんの長男喬さん(80)=呉市=は、教員として受け持った子どもを原爆で亡くした父の胸中を推し量る。「作文の持ち主や遺族が見つかることを願いたい」。そう話した。(明知隼二)

(2021年6月2日朝刊掲載)

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