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戦後76年 「遺品」の筆致 中島国民学校作文 被爆死の坂田さん

活発な少女に戦時下の影

 「私は米英にまけてたまるものかと思つていた」茶色く変色した原稿用紙には、戦時下の児童らしい決意がつたない筆跡で記されている。中島国民学校6年だった坂田和子さんが1943年に書いた作文で、山本五十六・連合艦隊司令長官の戦死をラジオで知った際の心情をつづる。(明知隼二)

 坂田さんは、川口孝太郎さんが担任していた女子学級の1人。翌春に安芸高等女学校(後に廃校)に進学した。45年8月6日は、爆心地から約900メートルの小網町(現広島市中区)一帯での建物疎開作業に動員され、遺骨も見つかっていない。

 「和子姉ちゃんは気が強く活発な人だった。うちによくご飯を食べに来て、母がかわいがっていた」。いとこの森沢真智子さん(84)=高知市神田=は被爆前に確かにあっただんらんの光景を振り返る。両家は現在の平和記念公園(中区)に当たる材木町の同じ筋にあった。

 坂田さんの父寿一さんと森沢さんの父政一さんは兄弟で、ともに被爆死した。2人で洋服店を営んでおり疎開できなかったという。

 国民学校2年だった森沢さんは現安佐北区に疎開。被爆2日後に自宅跡を訪れた。「自分の家も本家(坂田さん宅)も全くない。ただ水道管からジャージャーと水が流れていた」

 両家とも父親を失い「和子姉ちゃんをしっかり弔った記憶はない」と悔やむ。遺品もない。80年近くを経て見つかった作文に「姉ちゃんも帰ってきたかったのかな。あらためて手を合わせてあげたい」と話す。

 調べを進めると、健在の元児童も見つかった。「子どもの目にも生徒思いの先生でした」。山本(旧姓小原)節子さん(89)=西区=は、川口さんが作文を保管していたと知り、担任教師の人柄をそう振り返る。

 吉島羽衣町(現中区)の自宅は製菓会社を営んでいたが、原爆で全て焼けた。「戦後の暮らしをどうやってしのいだのか、今も不思議です」。一緒に郊外に疎開していた長姉は市内への通院帰りに被爆。4日後に息を引き取った。いとこや女学校の同級生も亡くした。喪失を経験しバラックからの苦しい再出発を生き抜いた。

 「日光はよくさすし、きれいな廣(ひろ)島の川が流れてゐ(い)て時々アヒルがおよいでゐる」。山本さんは作文に目を通すと「私じゃないみたい」とつぶやいた。幼い筆跡で描かれた被爆前の光景は、その後強いられた悲惨に比べ、あまりに穏やかだった。

(2021年6月2日朝刊掲載)

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