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野球 サッカー 伝来初期 江田島でプレー 海軍兵学校の史料発見

 江田島市学びの館(同市江田島町)が所蔵する史料「久枝(ひさえだ)家文書」の中に、日本に野球やサッカーが伝わって間もない明治中期、江田島にあった海軍兵学校で両競技が公開でプレーされたことを記した小冊子が見つかった。ルールが詳しく解説され、まだ一般になじみのないさまが浮かぶ。西洋スポーツの受容史を補強し、広島とのゆかりを証す資料として専門家たちも注目している。(道面雅量)

 冊子は、1890(明治23)年12月19日付の「四号生徒及第証書授与式次第書 海軍兵学校」。江田島で長く庄屋を務めた久枝家から市に寄贈された文書の中にあった。元呉市史編纂(へんさん)室長の千田武志・広島国際大客員教授が、本年度内に刊行を予定する「呉市史資料編 海軍Ⅰ」に収録するため、文書を整理する中で見つけた。

 ほぼA6判大の袋とじ和装本で、印字面は15ページ。元江田島市文化財保護委員長の宇根川進さんは「当時の兵学校の最下級生が『四号生徒』。進級を祝う式のパンフレットと思われる。来賓として招かれた久枝家の当主が持ち帰ったものではないか」とみる。

 内容の大半は、授与式後に開く小運動会の「ベースボール」「フートボール」のルール解説。ラインの引き方など競技場も図示する。「来賓ト共ニ遊戯ヲナス」とあり、明治初めごろ日本に伝来した新スポーツを紹介する趣旨がうかがえる。

 ベースボールの項では、打席のバッターを「ストライカー」とするなど、現在と異なる呼称が散見される。「投球スルトキハ其(その)望ム所ノ高サニ球ヲ送リ」と、アンダースローの投手にバッターが球の高さを指定できた初期のルールが記されている。

 フートボールの項では、それぞれ両端に赤白の旗を立てた、幅「凡(およ)ソ十歩」の「陣門」(ゴール)を図示するなどしている。

 広島のサッカー史を調べているJ1サンフレッチェ広島の仙田信吾社長は江田島市を訪ね、冊子を実見した。「広島サッカー史の起点として広島高等師範学校(1902年設立、後の広島大)の蹴球部が知られるが、この記録は10年以上さかのぼる」と指摘。広島市中区の中央公園広場で建設計画が進むサッカースタジアムにミュージアム機能を持たせる構想があることに触れ、「展示などに生かす方策を考えたい」と話した。

 日本のスポーツ受容史に詳しい京都大の高嶋航教授(東洋史)の話 野球の項は、米国の公式ルールと照合すると、1881年以前のルールが書かれている。海軍に野球を広めた人物として、後に日露戦争の日本海海戦を参謀として指揮する秋山真之(さねゆき・90年7月兵学校卒)が知られ、彼が邦訳したルールがここに記されている可能性がある。サッカーも含め、軍隊が西洋スポーツの受容に寄与したことを具体的に示す貴重な資料だ。

(2021年6月3日朝刊掲載)

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