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被爆翌年に広島一中に建立 木碑収めた写真現存 遺族会長宅

遺族会長宅 進駐軍の指示で撤去

 被爆の翌1946年、広島一中(現広島市中区国泰寺町)に建てられた木碑に集う遺族らを収めた写真が、経緯も記した文書とともに残っていた。「墓標は進駐軍の指示により撤去を命ぜられ」。一中遺族会の現会長、秋田正洋さん(61)が、広島市中区の自宅で受け継ぐ会の資料を整理して見つけた。

 木碑は、爆心地の南東約900メートルで焼け残った正門わきのユーカリそばに建てられ、「本校教職員生徒戦災死記念碑」と書かれていた。

 「(昭和)二十一年(1946年)春遺族が未(いま)だ瓦礫(がれき)の残る校庭の片隅 墓標の前に集まつた時の寫眞(しゃしん) 此(こ)の墓標は進駐軍の指示により…」。3年生だった長男耕三さんを失った遺族会の秋田正之会長に、一中から後身の国泰寺高でも教えた広隆軍一教諭が書き送っていた。

 46年結成の遺族会は、亡き子どもらをしのぶ手記を集めて54年、「追憶」と題して自費出版。正之さんは発行人を、広隆教諭は編集人を引き受けた。この「追憶」を基に同年刊行された「星は見ている」は全国で大きな反響を呼んだ。

 正之さんの長男と級友で、在学中から遺族会の世話を務めた須郷頼巳さん(83)=東区=は自らも写る写真に目を凝らして語った。

 「校舎跡などに残っていた遺骨を集めて木碑を建てたが、『メモリアルなものはまかりならん』と撤去され、秋田さんは憤慨した。原爆から3年後、『追憶之碑』と刻んだ今の石碑を建てる時も当時の校長から難しいことを言われました」

 須郷さんによると、「8月6日」は小網町(中区)一帯の建物疎開疎開作業に動員されて級友の大半が亡くなった「35学級」(3年5組)にいた生徒8人も写っているという。

 正之さんの次男正洋さんは「父が残した遺族らとの手紙も整理して同窓会へ託し、一中の歴史を後輩や市民にみていただきたい」と話している。広島一中の原爆犠牲者は教職員16人と生徒353人が確認されている。(編集委員・西本雅実)

連合国軍総司令部(GHQ)占領下の原爆死没者慰霊
 1、2年生541人が犠牲となった広島市女(現舟入高)の遺族らは48年、生徒が被爆した元安川右岸に「平和塔」の名で碑を建立。広島市は対日講和条約が発効した52年、原爆慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)を建てた。以降、毎年8月6日の平和記念式典で、書き加えた死没者名簿を納めている

(2013年7月28日朝刊掲載)

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