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社説・コラム

『潮流』 「暴力はダメ」の先

■論説委員 森田裕美

 いかなる理由があっても暴力は許されないと思っている。自分から遠ざけたい気持ちも強い。

 だがそんなふうに「暴力に対する道徳的な忌避感を持てば持つほど、私たち自身の行動が過度に狭められてしまいかねない」。藤野裕子早稲田大准教授が、著書「民衆暴力」で指摘していて、ドキッとした。

 暴力を嫌悪しおびえる感情は、為政者に利用されやすいというのだ。例えば抑圧に抵抗するデモも、為政者がテロと呼べば、弾圧が正当化される。暴力を振るった人へ厳罰を求めたり、暴力をやめさせるという理由で戦争を容認したりといった、別の暴力への無感覚も生み出すという。

 確かに「暴力はダメ」と思考停止してしまえば、暴力が関わる歴史の記憶は、自分から遠いものになる。それは、自分たちに不都合な歴史を忘却することにもつながるかもしれない。

 上映中の「狼(おおかみ)をさがして」(キム・ミレ監督)を見て、あらためてそう思った。1974~75年、連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線を追った記録映画。彼らの掲げた正義とは何だったのか。過激さのみが印象に残る事件の背景に迫る。

 彼らを駆り立てたのは、戦前戦中の植民地支配への反省もないまま、今度は経済を武器にアジアへ手を伸ばす当時の日本社会への怒りだ。だがその加害性を見抜いて阻止しようとした彼らが、暴力で多くの人を殺傷する加害者になる。

 映画は、彼らが自らの加害に向き合う姿にも迫る。彼らの行為は決して容認できず共感もできない。半面、では国家による暴力(加害)は放置されていいのか…などと考えさせられる。

 暴力への嫌悪感から目をつぶり歴史の一こまを遠ざけてしまえば、この事件から教訓を学ぶ機会もなかったに違いない。「ダメ」の先に思考を巡らせてみる。

(2021年6月5日朝刊掲載)

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