『記憶を受け継ぐ』 角田長三多さんーうめく叔父 感じた無力
21年6月7日
角田長三多(すみだ・おさた)さん(96)=広島市南区
畑耕し命を実感 「平和な暮らし」自問
角田長三多さん(96)は原爆で叔父(おじ)たちを失い、戦後も食べ物に事欠く苦しい生活を経験しました。「本当に平和な日々の暮(く)らしとは何だろう」と常に考え、戦争を振(ふ)り返(かえ)ってきました。
1945年8月当時は、広島工業専門(せんもん)学校(現広島大工学部)で機械工学を専攻(せんこう)する3年生。20歳でした。千田町2丁目(現中区)の自宅は、空襲(くうしゅう)に備えて防火帯の空き地を造る「建物疎開(そかい)」で撤去(てっきょ)されることになり、6人きょうだいの長男だった角田さんは、修道中3年の弟と阿品(あじな)(現廿日市市)の親戚宅(しんせきたく)に身を寄せました。
父の勤(つと)め先は、広島陸軍(ひろしまりくぐん)被服支廠(ひふくししょう)。物資を疎開させる任務に合わせ、両親と3人の弟妹は現在の島根県津和野(つわの)町に移りました。もう1人の弟は学童疎開で県北へ行きました。
6日朝、自宅に立ち寄り荷物を片付(かたづ)けていると、空襲警報(けいほう)が鳴りました。「阿品に戻(もど)ろう」と電車に乗り、己斐(こい)(現広電西広島)駅で乗(の)り換(か)えた直後です。車内に閃光(せんこう)が走り、ダーンと爆音(ばくおん)が鳴りました。
とっさに身を伏(ふ)せて助かりましたが、ほかの乗客は顔や全身にガラスが刺(さ)さり血(ち)だらけです。爆心地から2・5キロでした。「近くに爆弾(ばくだん)が落ちた」と思い慌(あわ)てて旭山神社(現広島市西区)の裏山(うらやま)に逃(に)げました。昼ごろから泥(どろ)のような黒い雨を浴び、歩いて帰宅(きたく)しました。
3日後に汽車で津和野に向かいます。母の光代さん=当時(44)=が「えかったどー。よお帰ってきたのお!」と泣いて抱(だ)きしめてきました。広島壊滅(かいめつ)の情報が届き、心配していました。
被爆から2週間後、叔父の国広積(つのる)さん=同(42)=と親戚の石本久子さん=同(44)=の安否(あんぴ)を確かめるため、母と広島に戻りました。風呂場(ふろば)とトイレの焼(や)け跡(あと)にトタンを張って雨露(うろ)をしのぐ人たち、遺体(いたい)を焼く臭(にお)い…。シジミを採って遊んだ元安川には、潮(しお)の満ち引きのたび遺体が流されていました。「あまりにも気の毒で、衝撃的(しょうげきてき)」でした。
爆心地から1・4キロの住吉橋(現中区)で被爆した国広さんは、高須(たかす)(現西区)の自宅にいました。全身やけどの体にうじ虫がわき、うめき声を上げていました。数日後、「どうしようもない無念さに押(お)しつぶされそう」な気持ちで広島を去りました。国広さんは翌月(よくげつ)亡くなりました。石本さんの遺体は見つかっていません。「どんな悲惨(ひさん)な死に方をしたのか―」
戦後、食糧(しょくりょう)を求めて山口県徳佐(とくさ)村(現山口市)に移住。家族で支え合い、一生(いっしょう)懸命(けんめい)に畑を耕しました。イモや稲(いね)が伸(の)びゆく生命力に「これが平和だ」と実感したといいます。「貧しくても、家族で過ごす時間が一番の幸せだった」。同じ頃(ころ)、キリスト教の思想を学ぶ機会を得ました。「お国のために死ぬ」という軍国主義的な考えを見つめ直していきました。
小学校の教員になりましたが、結核(けっかく)を患(わずら)い3年間闘病(とうびょう)生活を送ります。その後広島に戻り、37歳から広島大で流体力学を研究。各地の生活に根ざした手仕事の品々にこそ美を見いだそう、と思想家の柳宗悦(やなぎむねよし)が提唱した「民芸運動」にも関わるようになりました。広島県民芸協会の会長も務め、2007年には「民芸―平和な暮らし」をテーマに日本民芸協会の全国大会を広島で開きました。
現在、妻英子(ひでこ)さん(89)を介護しながら静かに毎日を過ごしています。「多様な文化を尊(とうと)ぶことが、日々の平和な暮らしにつながる」。民芸協会の会員にいつも伝えてきた言葉です。(湯浅梨奈)
私たち10代の感想
「仲間とならば」に感銘
角田さんはうっすらと涙(なみだ)を浮かべて話していました。それでも、被爆後の生活を「いい経験」と振り返ったのが印象的です。飢(う)えをしのごうと、方法も分からず始めた農業や教員生活に全て前向きに取り組んだといいます。「仲間とならば、何をやっても楽しい」と角田さんはいいます。私も学校で仲間を大切にしようと思いました。(中3中真菜美)
苦しくても生きる希望
「元安川に遺体が浮かび、潮の満ち引きで行ったり来たりしていた」という証言に想像できないほどの悲惨(ひさん)さを感じました。戦後に苦労した角田さんから、どんなに苦しくても生きていれば希望はあると学びました。私たちは新型コロナウイルス禍(か)にあり厳(きび)しい状況ですが、日々の生活でささやかな喜びを見つけたいです。(高2四反田悠花)
角田さんは被爆前に家族と離れて暮らし、とても寂しい思いをしたそうです。私も父が単身赴任であまり一緒に過ごせないため、共感しました。「8人家族で経済的に厳しかったけれど、家族で一緒に居られるだけで幸せ」との証言を聞き、家族はいつもそばにいるのが当たり前でないことがわかりました。これからもずっと家族とつながり、大切にしたいです。(中2谷村咲蕾)
◆「記憶を受け継ぐ」のこれまでの記事はヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。また、孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。
(2021年6月7日朝刊掲載)