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[ヒロシマの空白] 福山誠之館から現・一橋大へ 陸上部の「好漢」世良さん 被爆死学徒の足跡をたどる

大学卒業生の会が資料集め

12・13日 オンライン大学祭で発表

 県立福山誠之館中(現誠之館高、福山市)から東京商科大(現一橋大)に進み、21歳のとき広島で被爆死した出陣学徒の世良誠さんの足跡をたどろうと、同大卒業生たちでつくる「一橋いしぶみの会」が資料を集めている。情報をまとめ、コロナ禍のためオンラインで今月12、13日に開かれる大学祭で発表する。(新山京子)

 「身なりはちゃんとしてキザな眼鏡」「そのうち彼が勉学においても運動においても…有能な好漢だといふことが分(わか)って来た」。在りし日の世良さんの姿を、終戦からわずか1年余り後の1946年10月、同級生が追悼記につづっている。

 世良さんは米国生まれの日系2世。戦前、両親の古里の福山へ移った。41年、東京商科大予科に入学。陸上競技部の中距離選手だった。太平洋戦争中の44年に応召し、45年8月6日は広島城一帯を拠点にする中国軍管区歩兵第一補充隊に配属されていた。部隊は原爆で壊滅的被害を受けた。

 「英語が堪能だから、米兵捕虜と関わる任務だった可能性もあるのでは」。一橋いしぶみの会の世話人代表、竹内雄介さん(70)=東京都国立市=は語る。同級生による追悼記には、気さくな世良さんが「さぼって俘虜(ふりょ)と遊んだり」していたと聞いた、とも記されているからだ。広島で被爆死した米兵捕虜を長年調査する森重昭さん(84)=広島市西区=の協力を仰いだが、決定的な情報を得るには至っていない。

 2001年結成の同会は、戦没学徒や戦死した卒業生たちの掘り起こしと慰霊を続ける。大学の戦没者名簿などで名前が判明しているのは837人。沖縄、満州、シベリア抑留―。一人一人の経歴、人柄、死亡時の状況などを調べ上げ、「空白」を埋めている。

 大学祭でその成果をパネル展示し始めたのは15年。竹内さんが元動員学徒の同窓生から「死んだ同級生たちの存在が忘れられてはならない。記録し、次世代の学生に伝えてほしい」と託されたのがきっかけだ。準備は同大新聞部の現役学生たちとの共同作業。今回は、世良さんら運動部で活躍した9人の「戦没アスリート」をテーマに約45分の動画を配信する。

 世良さんに関して、部活動の記録や写真などの資料を得たものの、応召以降の期間の情報はまだわずか。その中に、戦後帰米した姉静子さんが弟の旧友に送った手紙がある。

 「鞆の浦で泳ぐのを何より楽しんで…いつも笑顔でした」。原爆で壊滅した広島に入り、懸命に弟を捜し歩いたが、部隊の将校らしき軍人から掛けられた言葉にいちるの望みを絶たれたという。「セラ? セラハ シンダヨ!」「一瞬にして世界は真っ暗になった」。英語の文面に、悲痛な思いがにじむ。

(2021年6月7日朝刊掲載)

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