×

ニュース

[ヒロシマの空白] 輜重隊の拠点 火の海に 写真・手記に惨状 遺族 発信願う サカスタ用地に被爆遺構

 広島市中区の中央公園広場で大規模な被爆遺構が見つかった「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」。原爆で壊滅する前の兵営や兵士を収めた写真が10枚以上残っている。被爆後の惨状を伝える写真や手記もある。隊員の遺族たちは、発掘をきっかけに、スタジアムが建つ地に刻まれている戦争、原爆の悲惨な実態を知ってほしいと願う。(水川恭輔)

 記者が資料を探したところ、古い写真を集めている市民や市公文書館(中区)が被爆前のカットを保存していた。主に改称前の「輜重兵第五大隊」時代で、大正後期から昭和初期の撮影。軍馬を飼う厩舎(きゅうしゃ)や馬車で円陣を組む訓練、自動車隊の演習…。戦地で輸送任務に携わった部隊の日常が浮かび上がる。

 「父に面会に行くと、中でジュースのようなものを飲ませてもらいました。馬がたくさんおったねえ」。諏訪昭登さん(87)=中区=は幼い頃、材木関係の仕事をしていた父登さん(2002年に96歳で死去)が召集されて入隊したため、兵営を訪れた。

 輜重隊の兵士はさまざまな戦地に送られ、登さんは中国大陸に派遣された。フィリピンで活動した約150人の自動車隊は戦闘やマラリアで9割以上が命を落とした。戦況が悪化しても日本が戦争を続け、兵員補充も続ける中、1945年8月6日を迎えた。

遺骨見つからず

 登さんたちが戦後まとめた「広島輜重兵隊史」は、元隊員の被爆手記を載せている。「営内はすべて火の海。時おり遠く近く『助けてー。』『ギャアー。』と断末魔の凄惨(せいさん)な絶叫が聞こえる」―。

 「父の遺骨は見つからないままです」。沖藤宗三さん(87)=広島県安芸太田町=は11歳のとき、召集されて輜重隊に配属されていた父の正人さん=当時(37)=を失った。ちょうど8月6日、海外に派遣されるかもしれないからと、母と一緒に餅とすしを携えて面会に訪れる予定だった。

 戦後、沖藤さんと妻克子さん(82)は輜重隊の跡地を訪れ、川辺で土を拾って遺骨の代わりに墓に納めた。「今も部隊の跡地に眠っていると思います。一番は遺骨が見つかることですが、部隊の跡を見ることができただけでも感無量です」。2人に遺構の写真を見てもらうと、そう話した。

復興史でも注目

 詩人、峠三吉の「原爆詩集」(51年刊)に収められた詩「ある婦人へ」の中では「輜重隊あとのバラック街」が描かれ、馬に水を与えていた「水飼い場の石畳」の遺構が出てくる。発掘調査では、同様の石畳とみられる被爆遺構も確認された。復興史や原爆文学の観点でも注目されそうだ。

 「軍都、被爆、復興と広島のさまざまな歴史が刻まれた場所」。平和記念公園(中区)の被爆遺構の活用を推進する市民団体の多賀俊介さん(71)=西区=は中央公園での発掘の重要性をそう訴える。「市から状況説明がなかなかなく、とても気になっていた。コロナの対策を取りながら、貴重な遺構について市民に積極的に発信してほしい」と話す。

(2021年6月15日朝刊掲載)

年別アーカイブ