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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説主幹 宮崎智三 SDGsと放射性物質

排出ゼロ なぜ目指さない

 子どもの頃、体温計といえば、水銀を使ったものが定番だった。何かの拍子で壊したとき、こぼれる水銀を見て親が慌てていた。そんなに危険なのかと驚いた記憶がある。

 水銀は、常温では液体という他の金属にはない性質を持つ。温度計や血圧計、蛍光灯、電池などに幅広く使われてきた。

 しかし環境に排出されると分解されず、汚染の原因となる。毒性が強く、生き物の神経系に影響を与えやすい。水俣病は、世界でも知られた、その深刻な被害である。

 汚染や被害を食い止める「水銀に関する水俣条約」が2013年、熊本市で開かれた会議で採択された。鉱山での産出から輸出入を経て使い、廃棄するまで、全過程を国際的に規制する初の取り組みである。環境や人体に害のある水銀を厳しく規制するのは当然といえよう。

 有害なのに大目に見られている物質もある。放射性物質も、その一つだ。人体にどんな影響があるかや、半減期がどれほど長いか、など種類によりさまざまだ。水銀と同じように論じるには難しい面もあろう。

 使用済み核燃料などを再処理して出てくる高レベル放射性廃棄物は管理した上で、地層処分することになっている。ただ原子力施設などからわずかではあっても放射性物質が大気や海洋に放出されることもある。現状の濃度規制では、何度も繰り返せば、際限なく出せることになりかねず、規制としては不十分だ。

 環境倫理の面から問題がある。まず、地球が有限であることへの配慮がない。生存する権利を人間だけでなく、動物を含めた自然にも認めるという考えとも相いれない。将来の世代への責任も果たしていない。

 環境倫理の基本に抵触しないようにするには、環境への放出量を大幅に減らすことだ。本来はゼロを目指すべきである。倫理より経済が大事だと異を唱える人もいよう。しかし21世紀の今、あまりに古い考えだ。国連の定める「持続可能な開発目標(SDGs)」にもそぐわない。

 SDGsには、25年までにあらゆる種類の海洋汚染を防止し、大幅に削減するという項目がある。有害な化学物質の放出の最小化などで、30年までの水質改善も掲げている。有害物質の無責任な「捨て得」は、終わらせなければなるまい。

 ではなぜ、放射性物質は特別扱いされてきたのか。軍事利用が先行してきた歴史が影響している。

 1950~60年代には、米国と当時のソ連を中心にした冷戦下での核軍拡競争で、核実験が大気圏内で繰り返された。大量の「死の灰」が地球にばらまかれ、国際問題となった。米ソなどは地上での核実験を禁じる条約を結んだ。それまで放射性物質の放出は「野放し」だった。

 しかも大国が核実験を行っていたのは、旧植民地の離島や砂漠など辺境の地ばかり。放射性物質による環境汚染や被害はほとんど見て見ぬふりで、積極的に向き合わなかった。倫理を欠くそうした対応は、軍事利用の裏返しともいえる商業利用でも似たようなものではなかったのか。

 放射性物質による被害の特徴も、背景にはある。遺伝子が傷つけられても、がんなどの症状が出るまで長い歳月がかかり、放射線が原因だと特定しにくい。泣き寝入りを強いられやすい構造的な問題がある。

 今年1月、核兵器禁止条約が発効した。原爆の惨禍を知る広島、長崎の長年の訴えを形にしたような内容である。核兵器の使用はもちろん、製造や所有、威嚇まで禁じている。同時に、核兵器の使用や実験などによる被害者の支援や、汚染された環境の改善を定めている。

 発効を機に、被爆地の知見やノウハウを核被害者の救済や環境改善に役立てなければならない。原発事故が引き起こした被害や汚染が、条約には含まれていない商業利用によるものだからといって、支援対象から外すことは許されない。

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

 およそ100年前に宮沢賢治が記した評論の一節である。21世紀の視点で解釈すれば、世界にいるのは自分たちだけでなく、人間だけでもない…。環境を含めた地球規模の発想の大切さを教えてくれる。

(2021年6月24日朝刊掲載)

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