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76年前の呉空襲 「火勢猛烈」「焦土」 検事報告書複写 息子の冨村さん保管

庁舎焼かれ混乱 惨状9枚に

 第2次世界大戦末期の1945年、軍港都市だった呉はたびたび米軍の空襲を受け、中でも7月1~2日の被害が最大だった。広島市南区の弁護士冨村和光さん(81)は、76年前に書かれた呉区裁判所(当時)の被災状況報告書の複写を保管している。上席検事だった父の霽男(はるお)さん(60年に61歳で死去)の筆跡。庁舎や事件資料が焼かれ、混乱した状況を克明につづっている。(湯浅梨奈)

 「倉庫ニ延焼スルニ至リ…消失ニ努メタルモ 火勢猛烈ヲ極メタル」「呉市内ハ殆ト(ほとんど)焦土ト化シ 未曾有(みぞう)ノ惨状ヲ呈ス」。終戦後の45年10月25日付でB4用紙9枚分。広島地裁の樫田忠美検事正に宛てている。事件の公判記録や判決原本が焼失して再捜査を余儀なくされた上、取調室や留置場がなく「事務上ノ不便」があると記述。進駐軍から敷地の使用を通告されたため、他の場所での新庁舎建設の必要性に言及している。

 証券取引等監視委員会の長谷川充弘委員長(67)=東京都目黒区=が広島高検検事長だった2015年、法曹関係者の原爆体験記集などと一緒にコピーを見つけた。広島地検に在籍していた1983年当時に上司だった冨村さんの肉親だと気づき、「空襲体験を風化させないため役立ててほしい」と送った。

 広島高検によると、原本も現存しているかや、コピーが残った経緯は不明。戦災資料に詳しい宇吹暁・元広島女学院大教授(74)=呉市=は「一定期間保存した公文書は処分されておかしくない。大変貴重」と話す。

 霽男さんは45年4月、5歳だった冨村さんたち家族を尾道に残して呉に赴任した。この空襲で約80機の米軍機が焼夷(しょうい)弾を投下。死者は1800人を超えたともいわれる。霽男さん自身は二河川に飛び込み命拾いした。「川に多くの遺体が流れ、2時間後には街が焼け野原になっていた」と後に語っていた。戦後は、呉区裁判所長と一緒に新庁舎建設の寄付金集めに回ったという。

 父と同じ道に進んだ冨村さんは、99年に京都地検検事正で退任。広島地検呉支部にも勤務したが報告書のことは知らなかった。「事件記録も全て焼けるなど、今では考えられないこと。混乱の中で懸命に任務を果たしたのだろう」と父と戦災について思い起こしている。

(2021年6月28日朝刊掲載)

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