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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説委員 森田裕美 ヒロシマの地層

未来に恥じぬ歴史刻もう

 子どもの頃に初めて原爆資料館(広島市中区)を見学し、平和記念公園を歩いたときのこと。爆心直下にいる私の足元にはきっと無数の骨が埋まっている…。そう思って胸が苦しくなり、石畳に体重をかけないようそろりそろりと移動した。

 すっかり忘れていた40年も前の情景がフラッシュバックのようによみがえったのは、歳月を経て巨大な被爆遺構が姿を現したためだろう。

 広島市がサッカースタジアム建設予定地の中央公園広場で進めている発掘調査で、旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」の施設の遺構が見つかった。

 明治期から「軍都」として近代化した広島。遺構が見つかった場所には、兵士が生活する兵舎や軍馬の厩舎(きゅうしゃ)があった。1945年8月6日、米軍による原爆投下で壊滅。兵士があまた爆死し、遺骨さえ見つからないという。

 〈白骨を地ならした此(こ)の都市の上に/おれたちも/生きた 墓標〉。峠三吉が「河のある風景」で言葉にした感覚を現代の広島で日常的に覚えるのは難しい。だが今回、そんなヒロシマの記憶を刻む地層が、身近な場所に現れ、私は少なからず動揺している。

 先月、報道機関に公開された現地を訪ねた。思った以上に広い。兵士が訓練に使ったとみられる階段や炊事場付近にあった煙突、馬の水飲み場などの跡が確認できた。

 旧陸軍の施設があったことは記録もあり、多少知っているつもりだったが、現物を目の当たりにした実感は重い。スケールや質感などは記録からでは得にくいからだ。現場からは銃弾や馬の骨も出土したと聞く。

 所々に大きな穴もあった。敗戦後には戦災者たちの簡易住宅が建てられた。ここで暮らした人たちがごみを捨てた穴とみられるという。峠の詩や大田洋子の小説にも登場するバラックが立ち並ぶイメージを、立体化してくれるようだった。

 軍都広島の歴史も、今なお全容解明できない原爆被害の実情も、戦後の復興をも、無言で語る遺構。「国際平和文化都市」として、ステレオタイプに扱われがちなヒロシマの多様な側面を考えるための一級資料といえよう。

 遺構の出土が報道されて以来、市民団体から、現地の公開や、保存に向けて協議の場を設けるよう求める声が相次いでいるのは当然だろう。

 残念なのは、市の対応である。当初、コロナ禍を理由に、市民に現地を公開しないとしていた。記録だけ残して事後に屋内で報告会を開き、近く撤去作業を始めて江戸期の地層を調べるとの方針を示していた。

 しかし市民からの要望を踏まえ、一転、方針を見直した。遺構の一部を保存できないか検討するとともに、現地説明会の開催を決めた。ただ開催は1日のみで午前中に30分ずつの計2回、定員は各回たったの30人。工期などの事情があるにせよ、「ヒロシマの地層」を積極的に見せ、記憶にとどめてもらおうとの姿勢は感じられない。

 歳月とともに記憶の風化が危ぶまれ、被爆体験継承の方法が模索される中、姿を現した遺構を今、活用しない手はあるまい。一人でも多くの人が過去の地層と出合い、考えることは継承の一手段であるはずだ。

 モノの存在は、記憶を刺激する―。第五福竜丸展示館(東京)の市田真理学芸員が、先ごろ研究者らで編んだ「なぜ戦争体験を継承するのか」(みずき書林)に記している。米国による水爆実験で被曝(ひばく)したマグロ漁船を保存・展示する同館で、船が来館者の「記憶を開封」し、「想像力を喚起」する場面を多く見てきたという。

 第五福竜丸に向き合うことで、当時を知る人は忘れかけていた記憶を語りだし、若い世代は学んだ歴史を自分に結びつける。ヒロシマの遺構でも同じことが言えないだろうか。

 今回出土した地層は、今を生きる私たちもまた歴史の一部であることを教えてくれる。私たちの時代が、歴史の教訓や先人の痕跡を粗末にした時代だったと、後世に責められるような地層を成してはなるまい。

(2021年7月8日朝刊掲載)

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