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[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 輸送隊員 家族思う8通

サカスタ用地の遺構 旧陸軍施設に配属

はがきと手紙 遺族保管

 米軍による広島への原爆投下で亡くなった旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」の岡田俊治さん=当時(22)=が、被爆1週間前までに玉野市の家族に送ったはがきなど計8通が遺族の元に残っていた。爆心地から1キロ以内で壊滅した輜重隊については、ことしサッカースタジアム建設に伴う中央公園広場(広島市中区)の発掘調査で過去最大級の遺構が出土した。原爆資料館(同)は「関連の所蔵資料は数点。隊員の姿に近づける貴重な資料」としている。(水川恭輔)

 岡田さんは岡山県第二岡山中学校(現岡山市中区の岡山操山高)の蹴球部でフォワードとしてプレーし、県大会などで優勝した。1944年に応召し、45年5月に輜重隊に配属された。

 はがきと手紙8通は、45年6月19日付から7月30日付まで。発信元は輜重隊の通称「中国(旧中部)第139部隊」で、両親たちに送っている。1通を除き「検閲済」の印がある。

 7月18日の父宛ての手紙は「未(いま)だに投弾なく、市街は完全疎開へ歩一歩と整備されつゝあります。食欲も旺盛で元気一パイ精励してゐ(い)ます」(以下、原文ママ)。同30日は「(米軍機の)B24が撃墜され、落下傘で下るあは(わ)れな兵を眼鏡で目撃しました。当方面は何等(なんら)の被害もありませんでした」と記述。近況を伝え、家族を安心させようとする文面が目立つ。

 家族を気にかける内容も多い。「岡山東南部に投弾と聞きましたが、如何(いかが)でしたか」(6月27日)「玉野市地上攻撃中と放送されてゐましたが、変った事はありませんでしたか」(7月28日)と米軍の郷里への攻撃を重ねて心配している。

 8月6日、輜重隊の兵営は壊滅。岡田さんは頭にやけどやけがを負い、8日後に死去した。手紙は両親が中学時代の写真などとともに長年遺品として保管し、おいの武鑓(たけやり)正勝さん(76)=広島市南区=が、受け継いだ。

 原爆資料館の落葉裕信主任学芸員は「軍人としてイメージしそうな勇ましさと対照的な家族を思う一人の若者の素朴な気持ちが伝わる」と受け止める。武鑓さんは「輜重隊の遺構を何らかの形で残し、遺品とともに叔父たち犠牲者のことを伝えてほしい」と願い、近く同館に寄贈する。

中国軍管区輜重兵補充隊
 馬や自動車で、武器弾薬や食糧の運搬を担う部隊で、隊員はここで訓練後に戦地に赴いた。広島城西側に輜重兵第五小隊として1880年に発足。その後に拡張や改称をした。「広島輜重兵隊史」(1973年刊)は、原爆の被爆死・行方不明者は計423人、負傷者は計343人に上ったとしている。

(2021年7月13日朝刊掲載)

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