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平和の思い 米から広島へ 被爆者の日系2世大力さん オンラインで発信 戦争の辛酸 振り返る

 在米被爆者で日系2世のジャック・大力(だいりき)さん(90)=カリフォルニア州サンフランシスコ=が、オンラインで広島とつながり、被爆体験を証言した。米国で生まれ、父の古里広島で14歳のとき被爆した。米国に残った母たちは、日系人収容所で辛酸をなめた。戦後、原爆を使用した米国で抱いてきた平和への強い思い。初めて日本に向けて発信した。(新山京子)

 大力さんは1930年、広島から同州サクラメントに渡った両親のもとに生まれた。41年8月、祖父を見舞うため1カ月だけの滞在予定で父と広島を訪れた。だが米国に帰る乗船券の入手に手間取っているうちに、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃。太平洋戦争が始まり、帰国を断念した。

 奥海田村(現海田町)の国民学校に編入したものの「日本語が全く分からず苦労した」。年が近い叔母の阿部(旧姓大力)静子さん(94)=南区=は、親身になって言葉や勉強を教えてくれた恩人だ。呉市立工業学校(現呉工業高)に進み、45年になると動員学徒として「他の生徒と同じように汗を流した」。対米戦争に協力する作業ではあっても、周囲になじもうと必死に取り組んだ。

 動員先の府中町の東洋工業(現マツダ)で被爆。広島市中心部へ建物疎開作業に出向く直前だったという。「あの日はいつもより出発が遅れていた。もし早く市中心部に出ていたら…」

 戦争で離散した母と弟たちは同州北部のトゥーリーレーク収容所に送られた。母は収容所で大力さんの妹を出産。弟は8歳で亡くなった。

 大力さんは48年に帰米し、建築家として勤め上げた。年を重ね、サンフランシスコの寺院や地元の大学で体験を証言するようになった。静子さんは原爆の熱線に右半身を焼かれ、苦しみながら50年代から被爆者運動や証言活動に尽くし、国内外で知られる存在に。文通を続け、励まし合って活動してきた。

 証言会は、リーダー育成や英語での表現活動に取り組む団体「広島フェニックストーストマスターズクラブ」が企画し、51人が参加した。大力さんは「まぶしい光を感じると同時に両手の指で目を押さえ、地面にふせた」こと、水を求める人や、やけどで垂れた腕の皮膚を引きずって歩く人の姿など、当時の記憶を身ぶり手ぶりを交え表現した。

 核兵器について意見を問われると「使用による世界全体の健康被害や環境への悪影響は計り知れない。だからこそ、使わない、使わせないことが大切」と言い切った。同団体の鈴木文三会長(81)は「米国で被爆体験を語り続ける上で、大変な苦労があったろう。平和への思いを広島でも語り継いでいきたい」と話した。

(2021年7月13日朝刊掲載)

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