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3姉妹の人生 川で「線引き」 「黒い雨」控訴審 広島高裁判決

被爆者援護対象 対岸の長女だけ

 広島への原爆投下直後、「黒い雨」を同じく浴びた3姉妹の人生は、被爆者援護を巡る国の「線引き」に翻弄(ほんろう)された。川沿いにあった3人の当時の自宅は国による援護対象区域外。区域内となった対岸で畑仕事をしていた長女だけが被爆者と認定された。区域外で黒い雨に遭った人たちが被爆者健康手帳の交付を求めた訴訟の控訴審判決が14日、広島高裁で言い渡される。「3姉妹とも被爆したと認めてほしい」。原告の次女と三女は願う。(松本輝)

 「同じ家で暮らし、同じように雨を浴びた家族なのにね…」。当時3歳だった次女の前田千賀さん(79)=広島市中区=と、1歳だった三女西村千空さん(77)=安佐南区=の2人は、援護対象区域を示す地図を見つめた。

 爆心地から北西に約20キロ離れた広島県佐伯郡水内村(現佐伯区湯来町)。あの日、2人は自宅そばの田んぼで遊んでいた。空が突然光ると、黒焦げの紙が降ってきた。しばらくすると雨が降った。服に黒い染みが付き、すぐに脱いで洗濯用のたらいに入れたと、後に母たちから聞いた。

 一緒にいた母は1981年、心臓病で亡くなった。「長く皮膚や目の病にも苦しんでいました」。2人も大人になって甲状腺がんや循環器機能障害を患った。

 しかし、国の救済はない。国が76年に指定した援護対象区域は当時の自宅近くを流れる太田川を境に線引きされ、自宅があった場所は対象外に。自宅から約1・5キロ離れた対岸の畑にいた長女(83)には被爆者健康手帳が交付された。

 2人は手帳の交付申請が却下され、2015年11月、広島地裁に提訴。昨年7月の一審広島地裁判決は国の援護対象区域よりも広範囲に黒い雨が降り、原告の男女84人全員を被爆者と認めた。「3姉妹が同じだとやっと認められた」。喜んだのもつかの間、被告側の国と県、市は控訴した。

 それから1年。2人は父を思い起こす。国民学校の教師だった花本兵三さん(07年に93歳で死去)は原爆投下時、開拓のため教え子と旧満州(中国東北部)にいた。帰国後、住民の証言集めに奔走する。太田川に沿って雨が降ったとでもいうのか―。県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会の前身で、78年11月に発足した被害者団体の初代会長を務め、国に区域拡大の陳情を重ねた。

 2人は今回の提訴を機に、被害者団体が当時発行した冊子を初めて目にした。父の強い決意が刻まれていた。「真実を教える教育者だった一人として黒い雨問題に決着をつけたい」

 黒い雨を浴びた人たちの老いは進む。原告は既に18人が亡くなり、うち14人は遺族が裁判を引き継いだ。健康被害に苦しみながら亡くなった母や多くの人たちのため、父の無念を晴らすため、2人は長い闘いの早期決着を望む。

黒い雨
 原爆投下直後に降った放射性物質や火災によるすすを含む雨。国は1945年の広島管区気象台の調査を基に、長さ約29キロ、幅約15キロの卵形のエリアに降ったと判断し76年、爆心地から広島市北西部にかけての長さ約19キロ、幅約11キロを援護対象区域に指定した。国は区域で黒い雨を浴びた住民に無料で健康診断を実施。がんや白内障など国が定める11疾病と診断されれば被爆者健康手帳が交付され、医療費が原則無料になるなどの援護策を受けられる。

 一方、区域外で黒い雨を浴び、手帳の交付申請を却下された広島市や広島県安芸太田町の男女が市と県に却下処分の取り消しを求め、2015年11月~18年年9月に順次、広島地裁に提訴した。市、県に手帳の審査、交付事務を委託している国も被告として訴訟に加わる。

(2021年7月14日朝刊掲載)

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