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社説・コラム

天風録 『辻久子さんの耳レーダー』

 戦前、9歳で楽壇デビューを飾ったバイオリンの天才少女に、耳を疑う頼み事が舞い込む。空を飛ぶ軍用機の音から、機種はおろか型式まで聴き分けよというのである▲戦況が深まると、潜水艦がどの方角の何キロ先にいるか、エンジン音から当てよと試された―。おととい訃報が届いたバイオリニスト辻久子さんの打ち明け話が、今は亡き落語家桂米朝さんの対談集「一芸一談」に見える。総力戦の一端をしのばせる▲「耳レーダー」の試験は朝飯前だったようだが、程なくの敗戦で話はご破算となった。しかし戦後も東西冷戦から「テロとの戦い」と、地球上に戦火の音が響き続ける。「銃の代わりに楽器を」と、辻さんも念じた一人だったはず▲本紙で辻さんの足跡をたどると、その音色はなぜか中国山地のひなびた町でも奏でられている。府中市上下町、島根県川本町…。生の音に触れる機会の少ない山里の方が聴き手の感動を味わえると、例の対談で語っていた。白紙状態で聴く心は格好の反響板となるのかもしれない▲中国地方も梅雨が明け、8月が近づく。戦後76年。平和の喜びともろさを肌身で知り、軍靴の響きに感づく世代がまた一人、旅立ってしまった。

(2021年7月15日朝刊掲載)

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