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[ヒロシマの空白 被爆76年] 入市被爆の100歳 手帳申請 旧陸軍暁部隊員 東京の岩下運雄さん

一度は不受理 「証し求め」再挑戦

 旧陸軍船舶司令部(暁部隊)の隊員として広島で入市被爆した東京都調布市の岩下運雄(かずお)さん(100)が15日、被爆者健康手帳の交付を都に申し出た。被爆証言を収めた広島市編さんの「原爆戦災誌」に名前が誤って記され、長年諦めていたが、一人娘の佐和子さん(63)が証拠を集めて代理申請にこぎ着けた。あの日からまもなく76年。「被爆した証しを刻みたい」との願いを受けた都は前向きに検討する考えを示した。(樋口浩二)

 「どうかよろしくお願いします」。この日、佐和子さんと運雄さんの孫で佐和子さんの長男蔵人(くろうど)さん(22)=慶応大3年=が都庁を訪ね、申請書類を疾病対策課被爆者援護係の担当者に渡した。戦災誌の誤記載などで2019年8月、不受理となって以来の申請だった。

 暁部隊の見習士官として潜水艇を操縦していた運雄さんは1945年8月6日、宇品港(南区)を出港直前の艇上で、米軍が投下した原爆の閃光(せんこう)を見た。松山港(松山市)から戻った8月10日ごろから数日間、広島市内で重傷者の救護や遺体の収容、戦災証明書の発行作業に当たった。24歳だった。

 戦後は広島を離れ、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)に入行。被爆者の認定申請は頭になかった。広島支店の勤務となって戻り、63年に原爆戦災誌の聞き取りに体験を語ったが、完成本を受け取った後に名が「一夫」と誤記されているのに気付いた。仕事で多忙でもあり、その時は気にとめなかったという。

 3度のがんを乗り越えた。だが近年、100歳の節目が近付く中で「人生で最も悲惨な体験」である被爆の証明がないことを悔いる思いが強まった。原爆投下前日に2人で酒を飲んだ親友は被爆死した。広島で被爆した証しを得たい―。佐和子さんや都内の被爆者団体「東友会」の支えを受け、手帳申請を決意した。

 佐和子さんは前回の申請後、日本政策投資銀行に依頼して「同音異字の行員は63年当時いなかった」との証明書を発行してもらい、この日、都に出した。担当者と1時間余りのやりとりを終え、「前回と全く違う対応だった。大きな前進で自宅の父に良い報告ができる」と喜んだ。都は「書類を精査し、できる限りの対応をしたい」とした。

 運雄さんは都に認められれば被爆者の集いにも参加し、体験を共有したいとの思いを持つ。その話を聞いて育ったという蔵人さんは「祖父の人生が認められればうれしい。被爆3世として祖父の体験を若い世代に語り継ぎたい」と話した。

(2021年7月16日朝刊掲載)

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