那須正幹さんを悼む 高樹のぶ子 原爆知る「怖さ」 笑顔の裏に
21年7月30日
那須正幹さんは、いつも笑顔の人だった。その笑顔も、とびきり魅力的でやさしかった。怒った顔が想像できない。会えば私を「のぶちゃん」と呼んでくれた。
那須さんの奥さんは、私とは又従姉妹(またいとこ)の関係で、とりわけ妹とは同級生だったこともあり、小さいときから姉妹のように付き合ってきた。
その又従姉妹が那須正幹さんと結婚して以来、何かにつけて交流があった。ご夫婦そろって、ほんわかとあたたかい人柄で、故郷の山河のようなやさしい人柄。
訃報を聞いたとき、那須さんの声が聞こえた。
「のぶちゃん、わしは先に行っちょるからね…急いで来んでもええよ」
その声の顔もまた、いつものあの笑顔なのだ。
どうしていつも、あんな風に穏やかな笑顔でいられるのかしら。長年の謎だった。
那須さんが私の故郷防府に家を建てたのは、何十年前だったろう。私が生まれ育った場所から自転車で十分のところにだ。
私にとっては故郷の護(まも)り主的な存在となった。そして会うたび、笑顔は大きくなり、やさしさも勢いを増した。
当時の作家は、福岡に在住していても、東京に居を移すことが多かった。編集者との付き合いや原稿の遣(や)り取りは、ネットのある今とは違い、東京の方がはるかに便利だったのだ。
今はむしろ、地方に移住する作家も出てきたけれど、当時は明らかに地方に居て書くことはハンディを負っていた。
那須さんは防府に居ながら「ズッコケ三人組」シリーズで、ベストセラーを出し続けた。その在り方は、珍しいというより奇蹟(きせき)だったかも知れない。
那須さんの笑顔は、いかにも三人の登場人物のキャラクターを見守る、やさしい作者のイメージで、どこにも翳(かげ)りがなく見えた。子供の心まで下りて物語を作るには、この無垢(むく)な笑顔が必要なのだと私は納得した。私が持っていないものを、那須さんは持っていたのである。
ときどき、笑顔の裏にあるものを想像したけれど、それは私が作家であり、幾層もの表情を顔に貼り付けているせいで、シンプルなものまで複雑に見えてしまうのだと。
けれど「ズッコケ三人組」シリーズからは想像できない絵本「広島の原爆」が送られてきたとき、ああやはり、あの笑顔の裏にはこのような怖さが潜んでいるのだと、腑(ふ)に落ちたのだった。
「広島の原爆」は絵本のかたちを取りながら、原爆に関する知識を詳しく書き込んだ、優れた教育書だった。那須さんの人生の原点、作家の根幹には、原爆の地獄が広がっていたのである。
亡くなってあらためて、那須さんの笑顔の深さを、こわごわ覗(のぞ)き見ている。
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那須正幹さんは22日死去、79歳。
(2021年7月30日朝刊掲載)