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従業員120人追悼 75年の重み 広島県府中町 被爆企業が建立 浄土真宗本願寺派久蔵寺

京都出身の住職 歴史守る

 原爆で120人もの従業員たちを亡くした企業が、犠牲者を追悼するために建てた寺がある。広島県府中町の浄土真宗本願寺派久蔵寺。ことしで建立75年となった。年月がたつにつれ、寺の成り立ちを知る人は少なくなった。今は県外出身の僧侶が寺を守り、大切な歴史をつなぎ留めている。(山田祐)

 その企業は戦前から鋳物製造を手掛けていた「藤川製鋼所」という。被爆当時は現在の広島市南区大州や広島県府中町に工場があり、軍需工場として軍艦のスクリューなどを製造していた。

 境内の一角に立つ石塔には原爆で犠牲になった従業員120人の名前が刻まれる。学徒動員された松本工業学校(現瀬戸内高)の生徒39人も含まれる。大半が国民義勇隊として現在の中区加古町に出向き、建物疎開の作業をしていた。

 石塔は被爆翌年の8月6日、当時の社長藤川長市さん(1953年に67歳で死去)が私財を投じて建造。追悼法要を営むため、46年末に建立したのが久蔵寺だった。

 会社の敷地内に建てた寺に、藤川さんはどのような思いを込めたのだろうか。

 「この地で弔いたいという思いが強くあったのだろう」。寺の前門徒総代長である石田愃夫(やすお)さん(77)=南区=はそう推し量る。

 藤川製鋼所の社員たちは建物疎開に動員された同僚や生徒の身を案じ、被爆直後から現地に入った。多くの亡きがらを収容し、社の敷地に運んで火葬したという。「変わり果てた姿になって会社に帰ってきた。社長自らが悲しみや自責の念と向き合うためにも、寺が必要だったのではないか」

 さらに広島市内は原爆で多くの寺が壊滅し、弔いの場が奪われた。「うちの寺も本堂の損傷が激しく、葬儀などを営める状況ではなかった」と、東区の安楽寺前住職の登世岡浩治さん(91)は振り返る。「多くの寺は同じような状況だった。葬儀を諦めた遺族も多くいただろう」と話す。熱心な安芸門徒だった藤川さんは、寺の建立を使命と捉えたのかもしれない。

 同社は戦後、社名を藤川産業に変えて寺の敷地内の社屋で機械の部品製造を続けていたが、2007年ごろに廃業した。寺を運営する宗教法人が09年、そこに新しい本堂を建てた。だが原爆の記憶を刻む旧本堂は残され、今も同じ場所にたたずむ。

 寺の後継者不足が問題になる中、15年からは京都市出身の佐竹英信さん(45)が着任し、寺を守る。「被爆の悲しい歴史が寺の原点。仏法を説くだけではなく、平和の尊さを伝えることが自分の責務」と誓う。

「折り鶴のお寺」 周知へ思い強く

 久蔵寺は「折り鶴のお寺」。多くの人にそう知ってもらえたら―と、住職の佐竹さんは思いを強くする。19年から通夜の参列者に折り紙を配り、鶴を折ってもらっている。寺の成り立ちを伝え、完成した折り鶴は告別式でひつぎに入れる。ことし4月に新設した合同墓も折り鶴をモチーフにしている。

 住職になるまでは、原爆に触れる機会などなかった。着任して、この寺の成り立ちを学ぶうち「歴史の重みを肌で感じるようになった」と語る。被爆当時の様子について話を聞ける人が減り、風化させないことの難しさを実感する日々という。「原爆で亡くなったすべての人に思いをはせ、継承者としての役割を果たしたい」と力を込める。

(2021年8月2日朝刊掲載)

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