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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説委員 石丸賢 平和の鐘と五輪

「核なき不戦」曇らせぬように

 半世紀前の1964年東京五輪とゆかりの深い釣り鐘が、広島市中区の平和記念公園にある。「悲願の鐘」。鐘楼は原爆供養塔の東側に立つ。そばを元安川が流れ、向こう岸には原爆ドームが見える。

 鐘造りに動いた「原爆被災者悲願結晶の会」(会長・森戸辰男広島大初代学長)が、突き初め式の日取りに選んだのは五輪の年の9月20日。世界から日本へと運ばれた聖火が広島に到着する、その日だった。

 鋳造を頼まれ、後に「人間国宝」の認定を受けた工芸家の香取正彦氏が生前、いきさつを著書「鋳師(いもじ)の春秋」に書いている。〈東京オリンピックの年を単なるスポーツだけのものにしたくないと、平和悲願の梵鐘(ぼんしょう)づくりを発願された〉

 心意気に打たれ、実費で引き受けたという。国境のない世界地図を、鐘の全体に浮き上がらせる図案は会からの注文だった。核兵器も戦争もない、平和共存の「一つの世界」を願った思いの深さがしのばれる。

 その祈りを知るほどに、もやもやした思いがぶり返す。国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長は、「映(ば)える」背景として被爆地広島を都合よく利用したのではないか。それが証拠に、手分けして長崎を訪ねたジョン・コーツ副会長ともども、被爆者の辛酸や核兵器の非人道性についての言及がいまだに聞こえてこない。

 悲願の鐘には、五輪発祥の地ギリシャの文字でかの国の警句〈汝(なんじ)自身を知れ〉が記されている。日本語でも〈自己を知れ〉と。核廃絶と不戦への歩みも、己への問い掛けから始まるという含みなのだろうか。

 自らを省みる姿勢は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の憲章でうたう理念にも通じている。いわく、戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない―。

 そんな自問自答に誘う仕掛けが、悲願の鐘にあることも今回の取材で知った。

 鐘楼の前に立つと、不自然さに気付く。鐘を突く「橦木(しゅもく)」が、正面の石段4段を上がった所にはなく、180度回り込んだ裏手になぜか据えられているのである。

 正面にあるのは石造りの踏み台。その上に立つと、直径20センチほどの円形をした、浅いすずりのような部分を目の当たりにする。これがミソで、元は鏡だった。鐘を突きに来る人の心を映し、自省に誘うよう、以前は磨かれていたのである。

 「この鐘の心は、この鏡。曇らせてくれるなよ」。私財を投じ、悲願の鐘造りを提唱した西村見暁・元金沢大助教授(当時)のそんな戒めが本紙記事にあった。

 ありし日の鏡がネット上の映像に残る。東京シネマ新社が89年に制作し、NPO法人科学映像館(埼玉)が公開している「日本の音風景100選から 広島・山口編4話」。8月6日の平和記念式典で鳴らす現在5代目の鐘や悲願の鐘を〈広島の平和の鐘〉として取り上げている。

 画面を見ると、例の円形部分は金色に光り輝いている。緑青が吹いたような色合いにくすんだ現在の姿に、その面影はない。

 これを「風化」などと受け止め、片付けてはなるまい。忘却―。それ以外の何物でもない。

 忘却を防ぐ心得の一つは、一人でも多くが鐘を突く側に回ることかもしれない。その点、被爆4年後の第3回平和祭(現平和記念式典)で一度だけ鳴らされた2代目の鐘の継承活動は参考になる。

 鋳物職人たちが焼け跡から金属を集め、鋳直した洋風のベル。今は、広島市民球場跡地の北側で塔につるされている。6年前から、市民の「響け!平和の鐘実行委員会」が毎年8月6日朝に式典を催し、鳴らしてきた。委員会の要望で市が改修し、鐘の引き綱を垂らす。明日からは、誰でも鳴らせるようになる。

 どの平和の鐘にも、「心」があるに違いない。みすみす曇らせるわけにはいかない。

(2021年8月5日朝刊掲載)

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