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[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 焼失の島病院 設計図発見 爆心地周辺で「貴重」

開業前 近代的に改装

 「爆心地」として知られる島病院(現島内科医院、広島市中区)が開業する前の1933年に製図された図面が7点、見つかった。もとは広島郵便局電話分室の建物で、どのように外科病院に改装されたのかが詳しく分かる。原爆で焼失する前の島病院の記録はほとんど残っておらず、貴重な一次資料だ。(桑島美帆)

 縦53センチ、横75センチの「外科島病院変更設計図」。同年4月22日付で島薫さん(77年に79歳で死去)が広島県に提出した「建築認可申請書」に添付されていた。

 図面から、島さんがドイツ留学や米国研修で最先端の技術を習得していたことや、建物を近代的な造りに改装したことがうかがえる。中庭を囲むコの字形の2階建てで、1階に薬局や医員室、「レントゲン室」を配置。機能的なトイレ設備や炊事場を備えた。2階には、18の病室のほか、娯楽室や看護師の詰め所も描かれている。

 島さんの力強い筆跡で「中央ニ廊下ヲ設ケ 両側ニ医員室薬局…各室ヲ設ク」と書き添えられており、当時35歳だった島さんの開院に向けた意欲が伝わってくる。

 県の認可は5月30日付。3カ月の改装工事を経て8月31日に開業した。原爆資料館学芸課は「島病院の建物の改装に関する記録資料は初めて見た。爆心地周辺の建築図面は残っておらず非常に貴重」と説明する。

 設計図は、医師として薫さんを継いだ長男・一秀さん(86)の妻直子さん(78)が今春、安芸区にある島家の蔵を整理した際に見つけた。改装前の広島郵便局電話分室の図面、旧細工町周辺の地図、終戦後の記録書類なども出てきた。

 76年前の8月6日、米軍が投下した原爆は島病院の上空約600メートルでさく裂。島さん自身は前日から甲山町(現世羅町)へ出張手術に出かけていて無事だったが、当直医や看護師、入院患者たち約80人が犠牲になった。

(2021年8月5日朝刊掲載)

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