亡き人の記憶と願い継ぐ 8・6式典 都府県遺族代表の思い
21年8月5日
父が体験した広島 原爆資料館で確かめたい
米国による広島への原爆投下から76年。平和記念公園(広島市中区)で6日に市が営む原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)には、24都府県から遺族代表各1人が参列を予定している。遺族も老いを重ね、最高齢は90歳、最年少は56歳。新型コロナウイルスの影響で昨年に次いで過去2番目に少ない。24人に亡き人の思い出や記憶、託された平和への願いを聞いた。
福井絹代(90)=青森
弟相川国義、17年5月18日、84歳、心不全
姉弟2人で暮らしていた千田町で被爆。沖合の似島に避難すると救護に動員された。傷つき、目や鼻、口の区別がつかなくなった人の姿などを思い出すと涙が出る。9日にたどり着いた郷里の長崎でも入市被爆した。参列は初めて。約50年前に広島を訪れた時、怖くて入れなかった原爆資料館に勇気を出して訪れたい。
伊藤勝(82)=宮城
叔母石亀エミ、45年8月8日、27歳、被爆死
叔母は横川方面へ外出中に被爆した。叔母の父と弟が、中広町の河川敷に遺体を引き取りに行ったという。温厚だった叔母。苦しみもだえて亡くなったと思うとつらい。叔母の幼い子ども2人と義母も原爆に命を奪われた。被爆者の死を無駄にしないよう、核兵器廃絶の願いを次代につないでいきたい。
生き地獄を味わい 雷が鳴るとあの日を思い出していた
佐藤力美(83)=秋田
父力、92年7月22日、77歳、脳梗塞
父は暁部隊(旧陸軍船舶司令部)に所属し、皆実町の兵舎内で被爆した。けがはなかったが下痢が続き死にそうになった。柱に挟まれた仲間を助けた。生き地獄を味わい、雷が鳴るとあの日を思い出していた。昨年に続き3回目の式典。「原爆だけは許さない」と語っていた父の思いを胸に参加する。
中村哲(68)=埼玉
母ヨシ、85年8月10日、67歳、くも膜下出血
小屋浦(現広島県坂町)に住んでいた看護師の母は被爆者の救護をして被爆したらしい。体験を聞く機会はなく、死後に姉から聞いた。19年に原爆資料館を初めて訪れ、焼け野原の光景に言葉を失った。核兵器廃絶の先頭に立つべき日本が核兵器禁止条約を批准しておらず情けない。政府に被爆者の思いを届けたい。
児玉三智子(83)=千葉
父国好明、02年3月14日、90歳、がんによる貧血
父は建物疎開の作業に学生を連れて行く途中、己斐地区周辺で被爆した。外傷はなく古田国民学校(現古田小)にいた7歳の私を迎えに来てくれた。爆風で飛ばされ電線に引っ掛かった遺体など悲惨な光景を語っていた。今年は核兵器禁止条約が発効した。広島の父母の墓前に核廃絶への新たなスタートを伝えたい。
斉藤玉子(75)=東京
母森田静枝、76年1月1日、65歳、心不全
家族は石内村(現佐伯区)に住んでおり、私を身ごもっていた母は逃げてきた被爆者を救護した。父ときょうだいも入市したり、「黒い雨」を浴びたりしたが、多くを語らなかった。差別を恐れたのだろう。初の式典参列。日本政府が核兵器廃絶により積極的になるよう、私たちの姿が力になればうれしい。
森川聖詩(67)=神奈川
父定実、11年1月3日、95歳、心不全
広島中央放送局(現NHK広島放送局)に勤めていた父は爆心地から1キロの上流川町(現中区)の職場にいた。生き残った者の使命感からか、川崎市に移った60年代から被爆者団体の結成に注力し会長も務めた。被爆2世の私も健康不安や差別に悩んできた。広島市の被爆体験伝承者として原爆の悲惨さを伝え続ける。
日向偉夫(74)=山梨
父退助、03年5月10日、85歳、間質性肺炎
父は比治山の裾にあった陸軍の兵舎内で被爆した。犠牲になった同僚もいたらしく、当時の惨状を誰にも語ろうとしなかった。母も大手町の自宅で原爆に遭った。両親が世話になってきた山梨の被爆者団体の会長を2年前、私が引き継いだ。式典に足を運べない高齢の会員の分まで犠牲者の冥福を祈りたい。
三村郁代(78)=長野
母アヤメ、07年2月8日、93歳、老衰
母は原爆投下の2日後、2歳の私をおぶって疎開先の広島県加計町(現安芸太田町)から入市した。多くを語りたがらなかったが、大手町の自宅は跡形もなく、周囲は手拭いで鼻を覆ってもひどい臭いがしたという。生前は毎夏、テレビで式典を見ながら一緒に手を合わせた。母の分まで心を込めてお参りする。
浜本英司(59)=岐阜
父秀人、20年6月21日、90歳、肺気腫
海軍の少年兵だった父は帰省を許され、母親と姉妹がいる三滝町に戻る途中、広島駅で被爆したらしい。勤労奉仕に出ていた母親を野宿しながら捜し歩いたが、遺骨も見つからず、大勢の死を目の当たりにしたことを時折、ぽつりぽつりと話してくれた。初の式典参列。悲劇が二度と繰り返されないよう祈る。
「病気との闘いは原爆との闘い」。 父の言葉忘れられない
磯部典子(70)=静岡
父杉山秀夫、10年8月16日、87歳、泌尿器がん
陸軍にいた父は、岡山県の所属部隊から広島に派遣された翌朝、広島城のそばで被爆した。30代から病気がちだったが、反戦への思いは強く、晩年もがんと闘いながら証言活動を続けた。「病気との闘いは原爆との闘いだ」との言葉が忘れられない。父の体験を語り継いでいる。式典であの日に思いをはせたい。
吉村健一(56)=愛知
父房雄、20年5月15日、88歳、心不全
父が被爆者だと私が知ったのは中学生の時だった。13歳の時、爆心地から1・5キロほどの学校で被爆し、右手や顔にやけどを負った。まじめで優しかった父。原爆について何も話さなかった。詳しい話を聞けていない私が県の代表でよいのか、との思いもあるが、誠心誠意、犠牲者のみ霊に向き合いたい。
コロナでかなわなかった昨年の分まで平和を願いたい
鈴木理恵子(58)=三重
父井上公治、96年7月11日、56歳、白血病
父は5歳の時、岡山県内の疎開先に迎えに来た14歳年上の兄と一緒に原爆投下から5日後、自宅のあった中島本町(現中区)に戻った。自宅は跡形もなく父の両親は亡くなった。兄弟でバラックを建てて暮らした。地元の児童が折ってくれた千羽鶴を携え、コロナの影響でかなわなかった昨年の分まで平和を願いたい。
村崎稔(76)=滋賀
父章一、12年7月12日、88歳、心不全
陸軍にいた父は訓練先の宮島(現廿日市市)できのこ雲を目にした。すぐに広島市内に入って救助に当たった。手記には「太田川にしかばねが累々と。まさに生き地獄の様相だった。非人道的殺りく行為に限りない憤怒を覚え、終生忘れられない」と記していた。父の無念を胸に、亡くなった多くの方々を慰霊したい。
木村美和(65)=京都
父大前和之、20年5月23日、97歳、脳梗塞
父は広島高等師範学校(現広島大)に通っていた。残した手記によると、被爆した時は軍の物資運搬に従事し、三次市まで行った帰りに横川町で被爆した。家族に直接話すことはなかったが、手記には克明に記していた。読むたびに胸が痛み、平和の大切さを感じる。核兵器のない世界が実現してほしい。
春本秀子(75)=大阪
母金光京子、08年1月4日、87歳、老衰
私を身ごもっていた母は当時、舟入(現中区)の親戚宅を訪ねていた。近くの防空壕(ごう)に身を寄せ、けがや後遺症もなく、家族で原爆の話をする機会はなかった。被爆者が減る中、もっと母に聞いておけばと強く後悔している。平和記念公園を訪れるのは修学旅行以来。慰霊の思いを胸に手を合わせたい。
林勝美(79)=兵庫
姉千津子、45年8月6日、14歳、焼死
旧陸軍被服支廠(ししょう)に動員されていた姉は、天満町の親戚宅で家屋の下敷きになり亡くなった。当時3歳の私も同じ家にいたが、建物の隙間に入った形になり、やけどもしなかった。ピカッと光り、ドンという音は今も記憶にある。昼間なのに空は暗かった。姉の話は両親からよく聞いた。静かに姉に思いをはせたい。
岡田康志(64)=奈良
母園江、19年11月26日、91歳、胆のうがん
母は終戦翌日、学徒動員先の呉から大田市に帰宅する途中に寄った広島で被爆した。学校の証明で被爆者健康手帳を手にしたが、1カ月後に入市した父には交付されなかった。不平等を感じつつ、母の初盆の昨年で一区切りつけるつもりだったが、「黒い雨」訴訟について知った。原告への支援拡充を切に願う。
母が暮らした街で原爆投下。惨事を見つめ直したい
川上佳紀(66)=岡山
母昌子、20年10月9日、90歳、肺炎
母は原爆についてほとんど語ることはなく、福山市の実家を離れ、尾長町の学校で被爆したとだけ聞いていた。生前の母と一緒に原爆資料館を訪ねようと思っていたが、実現できないまま亡くなった。今も心残りだ。母が暮らした街で原爆投下という惨事が起きた事実を、しっかりと見つめ直したい。
岩本誓治(78)=広島
父実美、81年10月18日、65歳、心不全
父は南観音町の自宅で被爆した。母と2歳だった私、生後間もない弟も一緒だった。下敷きになった母と弟を助け、現在の安芸太田町まで家族で歩いたと聞いた。弟は1歳で亡くなった。全てを失い、生きるのに必死で父子で原爆について話すことはなかった。戦争は苦しみと怒り、絶望しかもたらさない。 黒木律子(68)=徳島
父増田晃、20年9月12日、95歳、肝硬変
広島高等師範学校(現広島大)に進んだ父は、爆心地から1・5キロの下宿先にいた。がれきの下敷きになり、知人女性に助け出された。この女性の子どもを一緒に捜したが火が迫り、逃げざるを得なかった。助けられず深く悔いていたと後に書いた文章で明かした。8月6日の広島の街を体感し父を身近に感じたい。
竹内幹男(70)=香川
父忍、19年1月19日、94歳、老衰
国鉄職員だった父は出張先の広島市内で被爆した。寡黙な人だったが、水を求めて多くの人が川に飛び込む光景や、友人を捜して見つけられなかった体験を断片的に話してくれた。放射線の影響か、亡くなる20年ほど前からがんの手術を繰り返していた。父に代わって広島を歩き、墓前に報告するつもりだ。 浜田洋子(61)=愛媛
母下元幸子、20年1月14日、91歳、肺炎
母は17歳のときに被爆した。原爆投下後、広島市内の風景は一変し、この世の終わりだと思ったと話していた。皮膚が焼けただれた子どもに助けを求められたが、何もできなかったという。当時のことは家族にしか語らなかった。周りの目を気にしていたのだろう。式典では、母の分まで世界の平和を祈りたい。
古賀早穂(57)=熊本
父吉永宣生、21年2月1日、95歳、敗血症性ショック
父は暁部隊(旧陸軍船舶司令部)に所属していた。公務中に松原町で被爆し、とっさに近くのどぶ川に飛び込んだという。多くを語らなかったが、私の長女が広島に嫁ぐ話をした際に「原爆死没者名簿に名前が載ったら確認してほしい」と話していた。原爆資料館で、父が体験した広島の被害を確かめたい。
≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言。敬称略。
(2021年8月5日朝刊掲載)